日本一アツイ教育を実践する男が語るBLOG

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苦しみは人間を強くするか

苦しみは人間を強くするか、
それともうち砕くかである。
その人が自分のうちに持っている素質に応じて、
どちらかになる


ヒルティ 「幸福論」より

『苦しいから逃げるのではない。
   逃げるから苦しくなるのだ』 


ウィリアム・ジェームズ


楽しいときに笑うのは当たり前。
   苦しいとき、悲しいとき、
   “にもかかわらず”笑おう』 


斎藤茂太


『苦しみに出会ったら、まず感謝するがよい。それから、
   その苦しみが何のために役立つかをたずね給え』
 

ヒルティ

『人生の重荷は神の贈り物なので、
   バネにしなくてはならない』 


ヘレン・ケラー



  苦しみも、人生という長い目で見れば、
   何かしら役に立つことがあるはずです。
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【感 動】

無感動な人間ほどつまらぬものはない。

よく世間で、あいつは熱がないとか、
いっこうに張り合いがないと言うが、
電気が伝わらないような人間は、実際つまらない。

よくある無内容な人間になると、
せっかくいい話をしてやってもキョトンとしている。
話が通じない。これくらい情けないことはない。

人間の進歩というものは、
そういうインスピレーション、感動から始まる。
偉大な発明発見でも、あるいは悟りでもそうです。

みんな感動がないといけない。


                                安岡正篤

「本当のこと」に目覚めて、日本国を良くしよう

戦後、日本人は歴史を否定したために、
すべてのことを現在の知識だけで考え、
自分中心に物事を判断するようになった。
これが大変な間違いで、
今のような乱れた日本の国になってしまったのです。

日本人は今、原点に返ってもっと世の中の
本当のことを知らないといけない。
商売の利益になるというだけで、
休耕田をふやし、外国から食料を輸入して
平気で食べているけれど、
食物を消化吸収するというのは、
胃や腸の細胞の中にある遺伝子の働きなんです。

遺伝子の中には百五十億年前から伝えられている
神の知恵と地球上に生物誕生以来、
祖先が代々伝えてきた経験の知恵が含まれています。
だから祖先が昔から食べてきたものは消化できるけれど、
日本人の遺伝子の記憶にない食べ物は体が消化しにくい。

消化しにくいからお腹の中に不消化物がたまり、
そこから毒素が出て病人がいくらでも増えるんですよ。
医療費に何兆円という莫大な金を
つぎ込んでいるのは日本だけです。
日本人なんだから、日本で取れたものを食べなさい。
これが健康の元なんです。
企業の利益なんてその後のことだ。
まず、国民が元気になるということが原点でしょ。

外国のものばかり食べて育った子供たちは、
体は大きくなっても体力がない。
栄養学の問題じゃないんだ。
日本人は日本の米を食べなきゃエネルギーににならないんです。
子供たちに今、日本人の生命(いのち)が伝わっていない。
生命が伝わらないものは死にます。

生命とは生きる知恵のことです。
知恵は歴史からしか学べない。
だけど今、教育者たちは知恵と知識を混同して、
知識ばかりを詰め込んでいる。
生命を伝えるということは、
昔からの歴史を伝えるということだ。
今の若い人は歴史を振り返るという心がなくなっている。

なんでも「俺は関係ない。俺は知らない」と口癖のようにいうでしょ。
これは既に日本人の生命(生きる知恵)が消えている証拠です。
昔はみんな年寄りから昔のことを教わった。
それが生命を伝えるということです。

今の教育は日本の生命をなくしているんだ。
歴史の教科書には日本の悪いことばかり書いてある。
これじゃ子供たちは日本に誇りをもてない。
この状況でもう五十年経ったんです。
日本人は日本の正しい歴史と伝統を受け継ぎ、
次の世代に伝えなくてはいけない。
目先の知識だけに振り回されないで『本当のこと』に目覚めて、
乱れてしまった日本をみんなで良くしていきましょう。



葉室 頼昭 宮司

柳生家の家訓に、

「小人は縁に気づかず。
 中人は縁に気づいてもそれを活かせず。
 大人は袖すり合う縁をも活かす」

とありますが、人生は一期一会の連続です。
常に向上心を持ち、「いまここ」に全力投球で、
出会いのひとつひとつを活かしていこうと、
心あらたにしました。

人生は人との出会い。出来事との出合い。
その連続だといいますが、
自分を高めたい、もっと成長させたいと
求め続けていれば、
出会いひとつひとつが、より鮮明に映り、
その機会を活かすことが自分の人生を豊かにする
大きな原動力になると痛感しました。




    根底に学びたいという
    切実な思いがなければ
    どんないい先生についても駄目ですね。

    同じ人に会っても、
    そこから多くを学んで身につける人もいれば、
    素通りするだけの人もいます。

    どこが違うかというと、
    それは求めているか否かです。



                牛尾治朗(ウシオ電機会長)

進歩

古い葉が落ちなければ
新しい葉は出てこない

古い衣を脱ぎ捨てなければ
新しい衣は着られない

すべての進歩は
脱落脱衣を前提とする

              坂村 真民

三島由紀夫事件

1970年11月25日午前11時過ぎ、

陸上自衛隊東部方面総監部(市ヶ谷駐屯地)の総監室を「楯の会」メンバー4人と共に訪問。
名目は「優秀な隊員の表彰」であった。
総監・益田兼利陸将と談話中、自慢の名刀「関の孫六」を益田総監に見せた後、
総監が刀を鞘に納めた瞬間を合図に総監に飛び掛って縛り、
人質に取って籠城。様子を見に行った幕僚8名に対し、
日本刀などで応戦、追い出した。
その中には、手首に一生障害が残るほどの重傷を負わされた者もいた。

三島自身が自衛官と、詰めかけたマスコミ陣に向けて30分間演説することを要求してそれを認めさせた後、
バルコニーで自衛隊決起(=反乱)を促す演説をしたが、
自衛官達からは「昼食の時間なのに食事ができない」と言う不満や、
総監を騙し討ちして人質に取った卑劣さ、さらには三島の演説の内容へついての反撥も強く、
「三島ーっ、頭を冷やせー!!!」、「何考えてんだ、バカヤローっ!!!」といった
野次や報道ヘリコプターの音にかき消されてわずか7分で切り上げた。
そして森田必勝らと共に「天皇陛下万歳」を三唱したのち、
三島は恩賜のたばこを吸い総監室で上半身裸となり、
「ヤァァッ!」と叫び自身の腹に短刀を突き立て、
介錯の刃により絶命した。

自衛隊員たちに撒いた檄文には、戦後民主主義と日本国憲法の批判、
そして安保体制化での自衛隊の存在意義を問うて、
決起および憲法改正による自衛隊の国軍化を促す内容が書かれていた。

日本国憲法第9条第2項がある限り、
自衛隊は「違憲の存在」でしかないと見ていた三島は、
檄文のなかで自民党の第9条第2項に対する解釈改憲を

日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、
中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであろう
と日本の将来への絶望を吐露している。

惻隠の心

『性善説』と『性悪説』という対極の説がある。

『性善説』は、
“人間の本性は「善」であって、
悪は善なる性質が物欲によって
隠しおおわれるところから生ずる”
と孟子が最初に唱えた説である。

人間の本性が善であるというその証拠として、
孟子は人間の心の4つの働きをもって証明した。
その中心となるのが『惻隠の心』である。

いま、よちよち歩きの子供が井戸に落ちそうになっているとしよう。
それを見た通りがかりの人は、
誰でも我を忘れて走りより、
その子を助けようとするに違いない。
それは別に、子供を救って
その親とお近づきになりたいと考えるからではない。
世間の人にほめてもらうためでもない。
また助けなければ非難されるということが怖いからでもない。
それは人がだれでも「かわいそうだ」と
思う心をもっているからなのだ。

人間の本性が善きものであると考え、
孟子が掲げた4つの心は、

「惻隠の心」=かわいそうだと思う心
「羞悪の心」=悪いことを恥じ憎む心
「辞譲の心」=譲り合いの心
「是非の心」=善悪を見分ける心

である。

かわいそうだと思う心は「仁」の芽生えである。
悪いことを恥じ憎む心は「義」の芽生えである。
譲り合いの心は「礼」の芽生えである。
善悪を見分ける心は「智」の芽生えである。
人間は生まれながらに手足を4本持っているように、
この4つの芽を備えている。

それなのに、自分は仁義礼智など難しくて実行できない、
などと決め込むのは、自分自身を傷つけるようなものである。
他人に対しても同じように決め付けるのは人を傷つけるものである。
自分に備わっているこの4つの芽を育てていこうと決意すれば、
火が燃え出し泉が湧き出すようにそれは限りなく大きくなっていく。
これを育てていけば天下を安定させることができるはずだ。

大祓詞を神さまに感謝しながら唱えることで日本を立て直すことができる

「大祓の言葉というのは呪文ですか」と質問する人もいますが、
それは理屈です。
言霊なんですね。
言葉というのは、神さまの心を伝えるものです。
言霊に理屈というのはない。
その神の言葉そのものを唱えるということです。
これを無我になって唱える。
唱えるといっても、一度や二度唱えても祓われるわけがないので、
のべつまくなしに、にこにこしながら神さまに感謝して、
そしてゆっくり無心に唱える。
これしか方法はありません。
そこに理屈は何もないんですね。
だから、素直でない人は祓われないのですね。
神さまが祓われるとおっしゃっているのだから、
素直にゆっくり一言ずつ大祓を唱える。
これしか方法はないんです。
これをやっていたら、気がついたら罪や穢れが祓われている。

いまは日本中に、罪・穢れがあふれているでしょう。
理屈があふれている。
これを祓うのに最高のものは、大祓の言葉です。
これを子供の時から教えたらいいと思うのです。
しかし、そう言うとすぐに信仰の問題だとか、
宗教の問題だとか理屈をこねる。
そういう問題とは違うのです。
それ以前の、はるか昔から大祓詞は唱えられているのですから。
この大祓詞は、日本人の祖先が本当に素直になって、
無我になって聞いた言葉なのです。
だから、それを素直に唱えなさいと言っているわけです。

どうか皆さんも、祝詞の意味とか、
そのようなことは一切考えず、
無我になって「た、か、ま、の、は、ら」と、
一言ひとこととなえてみてください。
しかもこの大和言葉というのは「あ、い、う、え、お」の母音を
はっきり唱えるという言葉でありますから、
一言ひとこと母音をはっきり発語するように、
唱えてみてください。

もう冗談を言っている時ではありません。
祖先たちが伝えてきた真実の知恵の言葉に目覚めなければ、
日本の未来はありません。
そのための言葉が「大祓詞」で、
これは最高の神さまの言葉です。
日本人にはこれしかないのです。
これを日本人がみな
、毎日、無我になって唱えることが、
今ほど必要なときはないと思うのです。

                                     「大祓知恵の言葉」春秋社より

活きた時間というのは、
朝だけだ。
言い換えれば本当の朝を持たなければ一日ダメだ。
昔から優れた人で早起きできない人はいない。
ただ人々が寝静まって、
周囲が静かになった夜でなければ仕事ができないという人は別だが、
常態では朝が一番大事だ。
これを外したら一日ダラダラと無意味に終わってしまう。


                                     安岡 正篤

寸陰を惜しむ

 どんな忙人にでも、寸陰というものはある。
 ちょっとした時間というものは必ずある。

 そのちょっとした時間をつかむのです。
 これに熟練をすれば、
 案外時間というものはあるものです。

 寸陰を惜しんでやっていると、
 その寸陰が、長い時間と同じ、
 あるいはそれ以上の値打を生じてくる。


                                  安岡 正篤

最善観

おおよそわが身に降りかかる事柄は、
すべて天の命として
謹んでお受けするということが、
われわれにとって最善の人生態度と思うわけです。
ですからこの根本の一点に心の腰のすわらない間は、
人間も真に確立したとは言えないと思うわけです。
したがってここにわれわれの修養の根本目標があると共に、
また真の人間生活は、
ここから出発すると考えているのです。

                                      森 信三

しあわせ

幸せというのは
向こうから勝手にやってくる
ものではありません
すでに自分を山ほど
取り囲んでいるもの。
それにどれだけ気づくか、
というだけのこと。


            小林 正観

生きた学問

 すべて学問というものは、
 根から養分を吸収して、幹が出て、枝が伸びて、
 それが分かれて小枝、その先端に葉がつき実がなる。

 そしてそれが又落ちて、肥料になって、新しく芽を吹いてゆく、
 というように自然に伸びてゆくべきもの。

 自然に伸びていって、それが分裂せずに
 自ら一つの体系をなしてゆく。
 これでなければ本当の学問ではない。

 われわれは先(ま)ず
 『大学』から始まって、四書五経を教わった。
 それがある年齢に達した頃に、
 自分から面白いなあ、なる程なあと考えるようになる。

 最初は与えられたものだが、
 だんだんそれが生命化して来て、
 よし、一つ儒教を勉強してみよう
 と今度は自発的に読み出す。
 
 孔子の伝記をやるうちに
 どうしても孟子をやらねばいかぬ。

 今度は荀子(じゅんし)をやらねば気が済まぬ、
 というようにだんだん枝葉に分かれて来る。

 そうすると孫子・呉子(ごし)・韓非子(かんぴし)
 などというものまで関連して来て、
 今度はそれに道楽をする。

 斯様(かよう)に儒教を研究しながら、
 年季をかけて道楽していると、
 自然とあらゆる教学に入って来る。

 桃栗(ももくり)三年柿八年と言うが、
 人間の学問はやはり二十年、三十年と
 年季をかけて初めて生きた学問になる。


                                   安岡 正篤

生きるとは

人間において生きるとは
ただ単に生き永らえることではない。

人間において生きるとは
何のためにこの命を使うか
この命をどう生かすかということである。

命を生かすとは
何かに命をかけることである。
ゆえに、生きるとは命をかけることである。

命の最高の喜びは
命をかけても惜しくない対象と出会うことである。

その時こそ、命は最も充実した生の喜びを味わい
激しく、美しく燃え上がるのである。

君は何に命をかけるか?
君は何のためになら死ねるか?

この問題に答えることが
生きるということであり、

この問題に答えることが
人生である。

              田舞 徳太郎

心を整える

人間の心は庭のようなものです。
それは知的に耕されることもあれば、
野放しにされることもありますが、
そこからは、どちらの場合にも
必ず何かが生えてきます。

もしあなたが自分の庭に、
美しい草花の種を蒔かなかったら、
そこにはやがて雑草の種が無数に舞い落ち、
雑草のみが生い茂ることになります。

優れた園芸家は、庭を耕し、雑草を取り除き、
美しい草花の種を蒔き、それを育み続けます。

私たちも、もし素晴らしい人生を生きたいなら、
自分の心の庭を掘り起こし、
そこから不純な誤った思いを一掃し、
そのあとに清らかな正しい思いを植え付け、
それを育み続けなければなりません。


                     ジェームズ・アレン

国を亡ぼす君主

国を亡ぼす君主というものは、
きまって自ら驕り、
自らを知恵あるとして、
人を軽蔑するものである。
 
自らを驕れば人材をいい加減に取扱い、
自らを知恵ありとすれば専制独裁をやる。
相手を軽んずれば備えがなくなる。
何事があっても、
びくともしないという用意がなくなってしまう。
備えがないと禍を招き、
独裁をやると地位が危くなり、
人材を軽んずるとすべてが塞がってしまう。
そうして自ら亡んでしまう。


                       安岡 正篤

生活のリズム

力ずくで縮めさせたいとするなら,
 まず張らせてやるのがよい。
その力を弱めてやろうと思うなら,
 はじめは強くしてやるのがよい。
(相手を)引きずり降ろそうと考えるなら,
 はじめは権力を持たせてやることだ。
奪い去ろうと望むなら,
 最初に与えるがよい。
 ─これが極意である。

やさしさは力に打ち勝つ(柔よく剛を制す)。
 魚は深い淵に泳がせるがよい。
 国の鋭い武器(国を統治する奥の手)は,
だれにも見えないところに,秘すがよい。


                          老子36章

人間が守るべき4つの戒め

人間は「間」という字で表わされるように、
一人では生きることができない。
網の目のようにお互いに助けあっていかなければならない。
その助け合っていく間にも、ルールがあります。

一、物事がついている時には調子に乗らない。
一、幸せを独り占めしない。
一、決まりだからといって厳しく守ろうとし過ぎてはいけない。
一、いい言葉であっても八分目にして、人に考える時間を与える。


            五祖法演(12世紀の中国の禅のお坊さん)


『水徳五訓』

一、淡々無味なれども、
  真味なるものは水なり

一、境に従って自在に流れ、
  清濁合わせて心悠々たるものは水なり

一、常に低きにつき、
  地下に在りて万物を生成化育
  するものは水なり

一、無事には無用に処して悔いず、
  有事には百益を尽くして、
  功に居らざるものは水なり

一、大川となり大海となり、
  雲雨氷雪となり、
  形は万変すれどもその性を
  失わざるは水なり


                     守屋 洋「老子の人間学」より

『水五訓』   
               
一、自ら活動して他を動かしむるは水なり

一、障害にあい激しくその勢力を百倍し得るは水なり

一、常に己の進路を求めて止まざるは水なり

一、自ら潔うして他の汚れを洗い清濁併せ容るるは水なり

一、洋々として大洋を充たし発しては蒸気となり雲となり雨となり
   雪と変じ霰と化し疑っては玲瓏たる鏡となりたえるも其性を
   失わざるは水なり


                                          黒田 如水  

三不幸

伊川(いせん)先生言う、人、三不幸あり。
少年にして高科に登る、一不幸なり。
父兄の勢に席(よ)って美官となる、二不幸なり。
高才有って文章を能(よ)くす、三不幸なり。
                              (『伊川文集』)

年の若いのにどんどん上へあがる。
世の中はこんなものだと思ったら大間違いである。

というのは修練というものを
 欠いてしまうことになるからで、
これは不幸である。

 これは官ばかりではない。
親のお陰で若輩(じゃくはい)が重役になったりする、
 みな同じことである。

 またいろいろのすぐれた才能があって、文章を能くする、
――文は飾る、表わすということで、
つまり弁が立ったり、文才があったりして表現が上手なこと――
 これも大きな不幸である。

 今日は選手万能の時代で野球とか、
歌舞とか、若くてできる者にわいわい騒ぐ。
これは当人にとって、大きな不幸であります。

 若くてちょっと小説を二つ三つ書くと、
たちまち流行作家になって大威張りする。
 
小娘がちょっと歌や踊りができると、
 やれテレビだ映画だ、と引っ張り出して誇大に宣伝する。
つまらない雑誌や新聞がそれをまたデカデカと報道する。

変態現象と言うか、実に面妖(めんよう)なことで、
決して喜ばしい現象ではない。

人物の験し方「六験」

呂氏春秋(りょししゅんじゅう)には、
人物の人物の験し方「六験」というのがあります。


呂氏春秋(りょししゅんじゅう)とは、
中国の戦国時代末期、秦の呂不韋が食客を集めて共同編纂させた書物。

之を喜ばしめて以って其の守を験す。
之を楽しましめて以って其の僻を験す。
之を怒らしめて以って其の節を験す。
之を懼れしめて以って其の特を験す。
之を哀しましめて以って其の人を験す。
之を苦しましめて以って其の志を験す。

プラスの3K

龍源寺前住職の松原泰道老師が
人生をより豊にする生き方として、この3Kを勧めている。

老師は、次のように語っている。
現代人は老いも若きも傲慢である。
組織の中で、ひとり一人は網の目の一つに過ぎず、
自分さえよければ他はどうでも良いということではない。
互いに助け合い慰めあうことが大切である。
感動・希望・工夫という3Kでマイナスの状況をプラスに転じて、
人生をより豊にしていくことを私たちに勧めている。


第一のK(感動)について:
老師は、朝起きると
今日も生きていたというだけで感動を覚えるという。
感動を得るためには心の受信装置を精密にする必要がある。
読むことと書くことによって思索する能力を強化し、
感動力を身につけることが大切である。

第二のK(希望)について:
逆境に直面しても難病になったときも人の役に立つことを考えよう。
希望は自分だけではなく他人にも与えていこう。
痛みの分かっている自分が心から人を慰めることができれば、
相手も自分も救われる。

第三のK(工夫)について:
希望を表現するためには工夫が必要になる。
マイナスの状況をどうやってプラスにしていくかに
生きがいを見出すことによって強い人になれる。
また、人生の失敗や病気をした人の励ましは、
同じ境遇にある人を元気づけることができる。

謀略は知りながら、使わない

有名で力があり勢いがあって
華麗な人間や俗事に近づかない者は清潔ですが、
近づいていても染まらない者はもっと清潔で、
悪賢く策を弄する事を知らない者は、もっともっと清潔ですが、
彼らを知っていてもそれらを利用しない者こそ
最高に清潔すなわち高潔なのです。
つまり、人間は他に依存しない事が大事であり、
親の七光りを利用したり、
縁故を利用するのは下衆のすることです。
力のある者を忌み嫌う必要はありませんが、
下衆の下心は持たないようにすべきである。
言い換えると、活人たる者は、独立心と自負心を抱き、
近道を行く事無く、自力で道を極めなさいということです。
うかつにこれを使うと、ブーメランのように、
わが身にはね返ってくる恐れがある。
                          菜根譚 前集4項 

三上の読書

つまらぬ小説や愚論に類するものは
なるべく読まぬようにすると共に、
心が浄化されるような立派な書を読むべきである。
 
特に朝、それも一時間とは言わぬ、三十分でよい。
昔の人も枕上・馬上・厠上の三上の読書ということを言っておるが、
私は長年必ず厠で読むことにしておる。
 
厠で読むだけの時間であるから、
何枚も読めるものでもないが、
十年、二十年と経つと、
自分でも驚くほどの量となる。
 
しかもこれは数量の問題ではない。
その時に受けるインスピレーションというものは、
到底書斎の中で何々の研究などやっておって得られるものではない。

 
況やこれから安眠熟睡しようという枕のほとりにおいておやである。
寝る前に週刊誌等を読むのは最も愚劣なるものである。

                                 

読書して疲れるようではまだ本当ではない。
疲れた時読書して救われるようにならねばならぬ。

                                 安岡 正篤



立冬の今日から、
立春までが冬とされ、
艶やかな「山粧う」秋から
「山眠る」冬へと季節が移りゆき、
清々しい山茶花の花が
冬の妖精たちを
静かに出迎えています。

下の「今日は立冬」をクリックしてくださいませ。

今日は立冬

今どきの中学生

一、大きな志がない。
一、国語力がきわめて低い。
一、勉強への意識がきわめて低い。
   家で全く勉強しない子が半数近くいる。
一、勉強道具を大切にしない子が多い。
一、姿勢を正して長時間座ることができない子が多い。
一、自分に自信を持っている子が少ない。
一、疲れている子が多い。
一、死んでも生き返ると思っている子が多い。
一、規則正しい生活習慣が身についていない。
   特に就寝時間が非常に遅い。
一、自己制御力が弱い。
   キレル、ムカツクという言葉を多発する。
一、基礎体力がきわめて低い。

「生きる」と「生きがい」

「生きる」は「いき」と「る」という単語が結合してできた言葉です。
「いき」はブレス、呼吸することです。
「る」はその状態が続いていることです。
英語で言うとbe + ing、現在進行形です。
「生きる」というのは息をし続けることですから、
難しいことではありません。
動物でもできます。

一方「生きがい」とは何でしょう。
「生きがい」は「生きかい」が訛ったものです。
「かい」は二つあって初めて生きるもののことです。
貝は片方の殻だけでは貝になりません。
二つの殻が合わさって貝になります。
「生きがい」は一人で生きていては
感じることができません。
自分以外の存在、相手がなくては
感じることができないものです。
自分以外の存在があって初めて
「生きがい」が出てくるものです。

                               境野 勝悟

「勉強しなさい」と言っていませんか?

あの時こんなことを学んでいたら、
あるいは学ばなかったら、
今とは違う人生を送っていたかも知れない。
そう思ったことはありませんか?
 
人生の転機はどのようにして訪れるかわかりませんし、
学んだ知識が意外な形で役立つことも結構あります。
身につけておいて損にはなりません。

さて、そんな「勉強」ですが、
子どもの頃にやる基礎的なことが
実は非常に大切です。
 
足し算引き算をはじめとする四則演算や、
簡単な漢字の読み書きなど、
いわゆる「当たり前」とされることが土台となって、
はじめて高度な学問を順序立てて学べるようになります。
 
だからこそ、しっかりと身につけるために
地道な反復練習として計算ドリルや
漢字の書き取りを子どもの頃にやるわけですね。

しかし、自分が子どもだった頃を思い出せば
よくわかると思いますが、
こういった繰り返しの練習ってすぐ飽きてしまうんですよね。
途中で面倒になって放り出してしまうのを見て、
「ちゃんと勉強しなさい」
と叱りつける親御さんもいることと思いますが、
でも、叱って勉強させる
というのはあまりいい手ではありません。
 
無理に勉強を押し付けると子どもは反発するもの。
あまり強引にやらせようとすると、
「勉強=嫌なこと」になってしまって、
自発的に取り組まなくなりがちです。
自分からやる気を出して集中して勉強するのと、
押し付けられていやいや
勉強させられるのとでは明らかに効率が違います。
できることなら、自分から積極的に
取り組んでもらいたいところです。



秋もいよいよ深まり、日本列島が美しく染まる季節となりました。

自然の贈り物は、時にひっそりと、
そして、艶やかな姿で語りかけ、
豊かな感情を呼び覚ましてくれます。

今日はひっそりと佇み、ひっそりと別れを告げる秋の七草のご紹介です。

下記の「秋の七草」をクリックの上、その風情をお楽しみくださいませ。

秋の七草

三学戒

少にして学べば、則ち壮にして為すこと有り。
壮にして学べば、則ち老いて衰えず。
老いて学べば、則ち死して朽ちず。

                  (佐藤一斎 言志晩録60条)

若い者の怠けて勉学せぬ者を見る程不快なものはない。
ろくな者にならぬことは言うまでもないが、
まあまあよほどのろくでなしでなければ
それ相応の志くらいはあるものである。
壮年になると、もう学ばぬ、学ぼうとせぬ者が随分多い。
生活に逐(お)われてだんだん志まで失ってしまうのである。
そうすると案外老衰が早く来る。
いわゆる若朽(じゃっきゅう)である。
能く学ぶ人は老来ますます妙である。
ただし学は心性の学を肝腎とする。
雑学では駄目である。

わび・さびのこころ

現実には弱肉強食の世界があります。
しかし、競争の原理で邁進しなっかったら、
生き残れません。
しかし、競争の原理に立って弱肉強食の世界を突き進めば
会社の成長や拡大といった花は咲きますが、
心の花は咲きません。

人生の心の花を咲かせるにはどうすればいいか。
常に目標を掲げ、それに向かって突撃する
弱肉強食の考え方を「錆び」させなくてはいけません。
それが芭蕉のいう「さび」だと思って下さい。
そのためには、闘争の意識から離れなければなりません。
たとえ闘争の意識があったとしても、
闘争に対するこだわりは捨てることです。

競争の中で生きてきて、名誉や地位へのこだわりを捨てるとなると
侘しい気持ちを覚えるのも確かです。
その「侘しさ」が芭蕉のいう「わび」なのだと考えて下さい。

「わび」「さび」は心の中なのです。
あくまでも自分の境涯の問題なのです。


                                      境野 勝悟

感謝

夢や希望に満ち溢れているというのは
あれが足りない
これが足りない
あれが欲しい
これが欲しい
まだまだ寄こせ
もっともっと寄こせ
と言っているのと同じではないでしょうか。

                                  小林 正観

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プロフィール

矢野 一成

Author:矢野 一成
愛媛県新居浜市 アール塾塾長

備忘録、すなわち
忘れたときのために備えて、
書きとめておく、
個人的な雑記帳です。

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