日本一アツイ教育を実践する男が語るBLOG

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恵まれた国・・・日本

私はいまの日本の若い人にも、
     日本はダメなんて言っていないで、
     可能性を信じて新しい一歩を踏み出してほしいんです。

     日本は非常に恵まれた国だということをよく認識して、
     そこからさらに一歩前進し、多様性を包容して
     懐の深い国になる大きな課題があります。


            牛尾治朗氏(ウシオ電機会長)

             
オバマ氏の当選を見て、世界中が
実感したのではないでしょうか――。

「新しい力が古い権力に取って代わり、
 大衆の総意が既得権を潰そうとしている。」……と。

日本を代表する財界人の一人である、
ウシオ電機の牛尾治朗会長は、
「まさに新しい時代の夜明けが
 世界レベルで始まっている」
とおっしゃっています。

事実、先日中国では、
「中国はいまの共産党一党体制から、
 連邦共和制へ移行すべきだ」
という声明を、中国で人権活動を続ける作家、
弁護士たち303人がインターネット上で発表しました。

日本が直面している政治と経済の現状を考えたとき、
これを短期的視点で捉えてしまうと、
進むべき道を正しく見出すことは難易度を増すばかりでしょう。

しかし、ここで私たちの足元、
日本について今一度考えてみたいと思います。

今回の英断の舞台となったアメリカが抱えていた
背景の一つには、マネタリー経済の暴走と、
それをもたらした一部の経営者の常軌を逸した
倫理観の欠如という構図がありました。

これに対して、日本の国民性や風土というものは、
はるかに道徳や社会貢献、中長期的視点に立った「人」を
大切にする土壌があります。
その点で私たち日本人は本当に恵まれていると言えるでしょう。

そう考えたとき、日本の未来には
大きな可能性を見出すことができます。
これを信じ、真摯に国づくりに取り組んでいくことこそが、
まさに富国有徳に至る道にほかならないでしょう。
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人物登用法

魏の王である武侯が国の宰相を決める時、
幕賓の李克にどんな人物を選ぶかを相談します。
これに対して李克は次のように答えました。

一、平生どういう者と親しんでいるかを見る。
一、お金ができたとき、どう使うかを見る。
一、出世して地位が上がったとき、
   どういう人物を抜擢・登用するかを見る。
一、困窮したとき何をするかではなく、何をしないかを見る。
一、貧乏しているとき、何をとるかではなく、何を取らないかを見る。


『一八史略』より

後世の毀誉は懼るべし

当今(とうこん)の毀誉(きよ)は懼(おそ)るるに足らず。
後世の毀誉は懼るべし。
一身の得喪(とくそう)は慮(おもんぱか)るに足らず。子
孫の得喪は慮るべし。


(言志録 八九条)

【訳】
生きている間に褒められたり貶(けな)されたりしても、
恐れたり気にしたりする必要はない。

しかし、死んでしまったあとに褒められたり貶されたりすることは、
訂正のしようがないだけに注意しなければならない。
同じように、我が身の利害得失は心配する必要はないが、
子孫に及ぼす利害得失についてはよくよく考えておかなければならない。

礼の妙

情に循(したが)って情を制し、
欲を達して欲を遏(とど)む。是(こ)れ礼の妙用なり。


(言志録 六八条)


【訳】
感情のままに行動すると人の道に外れやすいものだから、
情に従うにしてもほどよいところで抑制することが大切であり、
また、欲をある程度達成したら、これを抑えるのがよい。
これが礼による秩序というものを
うまく用いるということなのである。

奥州藤原氏

坂上田村麻呂が蝦夷を討伐した延暦20年(801年)以後、
250年程の間、陸奥国は比較的平穏を保ち、
胆沢、和賀、江刺、稗貫(ひえぬき)、紫波(しわ。志波)、
岩手の「奥六郡」は陸奥国の縁辺となっていた。

安倍氏は9世紀の後半頃から勢力を伸ばし、
11世紀の初めには奥六郡の俘囚(中央では帰属した蝦夷を「ふしゅう」と呼んだ)
長として実質的な支配力を持つに至り、
奥六郡の北上川一帯に軍事的拠点を築いて一族を配置した。

永承6年(1051年)になって、安倍氏が貢ぎ物や徭役について国司に従わず、
奥六郡の南境である衣川の柵を越えて勢力圏を拡大しようとした。
これを防ぐため、陸奥守藤原登任(なりとう)は
安倍頼良を討とうとしたが鬼切部(おにきりべ。大崎市鳴子温泉鬼首)で大敗した。

この戦いが発端となり「前九年の役」が起き、
康平5年(1062年)までに、源頼義やその子義家は、
清原武則の援軍を得て安倍頼時や子貞任、宗任らを征討し、
清衡の父藤原経清は捕らえられ斬首された。
この功績で清原武則は鎮守府将軍に任ぜられた。
実質12年間続いたこの戦をなぜ「九年」というかについては不明である。

「前九年の役」から22年後の永保3年(1083年)、
源義家は陸奥守として再び陸奥に下った。
当時清原氏は真衡の時代で、
出羽国の所領に加え安倍氏の奥六郡をも支配し、
強大な勢力を誇っていた。
その中で、真衡の支配に不満を持つ一族の一人出羽の吉彦(きみこ)秀武が反乱。
真衡は陸奥守の義家に支援を依頼した。

真衡は出羽に出陣し、義家は真衡の館を防衛した。
秀武が味方につけていた真衡の親族・清衡と家衡は義家を攻撃したが敗退。
しかし、真衡は遠征中に急病で死亡した。
これを機に、清衡と家衡は開戦の責任を一門の者に転嫁し、義家に降伏した。
結果、義家は二人を許し、奥六郡を二分してそれぞれに与えた。

だがまもなく、与えられた領地に対する家衡の不満がもとで清衡と家衡は対立する。
応徳3年(1086年)両者の抗争が深刻化し、
家衡は清衡の館を攻め、妻子などの親族を殺害した。


清衡は単身逃れ、義家に援助を求めた。
これに応え義家は家衡を攻めるが敗退する。
が、寛治元年(1087年)、義家は弟の新羅(しんら)三郎義光の助けを得、
ようやく家衡を攻略。こうして「後三年の役」は終結した。
「後三年の役」の戦について、何年からのことを指すのか明確ではない。

藤原清衡

清衡は、安倍一族の血を引いて信望があったことを
背景に陸奥押領使となり、
奥六郡を支配。後に江刺郡の豊田館から平泉へ進出し、
更に南下の勢いを見せた。
関白家と庇護関係を結んで藤原姓を名乗り、
栄華を極める奥州藤原三代黄金文化の礎を築いた。
長治2年(1105年)中尊寺一山の造営に着手。
21年の歳月を掛けて完成させた。金色堂は天治元年(1124年)、
69歳の時に完成。その4年後の大治3年(1128年)7月17日、
73歳で生涯を閉じた。金色堂中央の須弥壇の中に清衡、基衡、秀衡の遺骸、
泰衡の首級が納められているが、遺骸の調査結果から、
清衡の死因は「脳溢血またはそれに類する疾患」とされている。


藤原基衡

基衡は、陸奥押領使となり、勢力を福島県下まで拡大した。
性格は剛腹、果断と評され、中央の藤原氏と荘園問題で争ったこともある。
大伽藍毛越寺を建立。中尊寺の規模が「寺塔四十余宇。
禅坊三百余宇」(吾妻鏡)だったのに対し、毛越寺は、四十余宇、
禅坊五百余宇に及んだといわれ、発掘調査の結果からも、
中尊寺をはるかに凌ぐものだったことが裏付けられた。
死亡年代は明らかではないが通説では保元2年(1157年)とされ、
遺骸の調査結果から、50~60歳くらいで没し、
死因は「脳腫瘍か脳溢血」と見られている。

藤原秀衡

秀衡は、「吾妻鏡」によれば、嘉応2年(1170年)5月25日鎮守府将軍に任ぜられ、
養和元年(1181年)8月25日に陸奥守になった。白河以北を完全に支配。
国府は多賀城にあったが、実質、平泉が陸奥国の行政の中心だった。
源義経を少年時代と都落ちの際の二度にわたり庇護するが、
文治3年(1187年)10月29日、義経の行く末を案じながら
「伊予守義顕(義経)ヲ大将軍トナシ国務セシムベキ由、
男泰衡以下ニ遺言セシム」(吾妻鏡)と言い残し、病で急逝した。
没年は不明だが、遺骸のレントゲン検査の結果から70歳前後と見られている。

「老いる」と「老ける」

老いる・・・誰もが平等に年輪を重ねること

老ける・・・実年齢よりも衰えてみえること

勤勉は人をその道のプロにする

     勤勉は必ずその人を、
     その道のプロにします。

また、プロになるには、
     勤勉以外にはありません。


            田中真澄(社会教育家)

              


凡人はいかにして成功できるか――。
上掲の田中先生の言葉は、多くの人が歩むべき道を
指し示してくださっていると思います。
そしてこれは、私たち日本人の多くに
備わっているはずの徳目です。

北風と太陽

寓話(ぐうわ)とは、道徳的な教訓を伝えるための短い物語である。
しばしば、動物などを登場人物とし、
不可解で神秘的な印象を与えることも多い。
まずは「北風と太陽」のお話から


あるとき、北風と太陽が力比べをしようとする。
そこで、旅人の上着を脱がせることができるか、という勝負をする。

まず、北風が力いっぱい吹いて上着を吹き飛ばそうとする。
しかし寒さを嫌った旅人が上着をしっかり押さえてしまい、
北風は旅人の服を脱がせることができなかった。
次に、太陽が燦燦と照りつけた。
すると旅人は暑さに耐え切れず、
今度は自分から上着を脱いでしまった。
これで、勝負は太陽の勝ちとなった。

これには、また別の話もある。
北風と太陽がした勝負は最初は旅人の帽子をとることだった。
最初、太陽は燦燦と旅人を照り付けると、
旅人はあまりにもの日差しで帽子をしっかりかぶり、
決して脱がなかった。 次に北風が力いっぱい吹くと、
みごと簡単に帽子は吹き飛んでしまった。
その次に行った勝負は旅人の上着を脱がす勝負だった。
この勝負の結果は周知の如くである。

この別の話の教訓は、何事にも適切な手段が必要である、ということである。
一方でうまくいったからといって、他方でもうまくいくとは限らない。
その逆も然り。
しっかり、結果を見据えて、手段を選ぶべきである。


教訓

手っ取り早く乱暴に物事を片付けてしまおうとするよりも、
ゆっくり着実に行なう方が、最終的に大きな効果を得ることができる。
また、冷たく厳しい態度で人を動かそうとしても、
かえって人は頑なになるが、
暖かく優しい言葉を掛けたり、
態度を示すことによって初めて
人は自分から行動してくれるという組織行動学的な視点もうかがえる。

人の長所を聞く

凡(およ)そ人と語るには、
須(すべか)らく渠(かれ)をして其(そ)の長ずる所を説かしむべし。
我れに於(おい)て益(えき)有り。


(言志録六二条)

【訳】

人と語るときには、その人の長所を話させるのがよい。
そうすれば、それが自分のためになる。

○「話し上手よりも聞き上手」になることが大切である。

学問は経典の外にもある

古人は経(けい)を読みて以(もっ)て其(そ)の心を養い、
経を離れて以て其の志を弁ず。
則(すなわ)ち、独(ひと)り経を読むを学と為(な)すのみならず、
経を離るるも亦(また)是(こ)れ学なり。


(言志録六〇条)


【訳】
古人は四書五経を読んでその心を養い、
経典を離れて自己の志を明らかにしようとした。
すなわち、経典を読むばかりが学問なのではなく、
経典を離れたところにも学問はあるのである。

試練

凡(およ)そ遭(あ)う所の
患難(かんなん)
変故(へんこ)*、
屈辱(くつじょく)
讒謗(ざんぼう)*、
払逆(ふつぎゃく)*の事は、

皆天の吾(わ)が才を老せしむる所以(ゆえん)にして、
*砥礪(しれい)**切磋(せっき)*の地に非(あら)ざるは莫(な)し。
君子は当(まさ)に之(こ)れに処する所以を慮(おもんぱか)るべし。
徒(いたず)らに之れを免(まぬが)れんと欲するは不可なり。


(言志録五九条)

【訳】
我々が遭遇する苦労や変事、
恥ずかしい思いやひどい悪口、
思い通りにならないことは、
すべて天が人を熟成させるための手段であって、
一つとして人間を磨き上げるために役立たないものはない。

したがって道に志す人は、
こうした出来事に出遭ったならば、
いかに対処しようかと考えるべきである。
むやみにこれらから逃れようとしてはいけない。

 *変故(へんこ)――変わった出来事。
 *讒謗(ざんぼう)――そしること。
 *払逆(ふつぎゃく)――心にもとること、思うようにならぬこと。
 *砥礪(しれい)――とぎみがくこと。
 *切磋(せっき)――切は骨や角を切ること。磋はやすりでとぐこと。
            転じて学問に励むこと。

○志ある者は、試練を自ら求めるものである。

怠けものがいるから世の中は発展する

昔はみんな歩きました。
では、歩くのは全然苦労じゃない、
歩くのは健康にいいし、
人間はみな歩くべきだ
と考えている人ばかりだとしたら
どうでしょうか?
今も私たちはみんな歩いていたことでしょう。

ところが中にはものぐさな怠けものがいます。
歩くのは面倒だ。こんな暑い日に歩けるかという人がいます。
そういう人がいるから、自転車が考え出されました。

もっとものぐさな人がいて、
ペダルを漕ぐのさえかったるい
ペダルを漕がずに進む方法はないかと考え
自動車が生まれました。

怠けものがいたからこそ
人間が場所を移動するのに
いろいろなものを発明してきました。
進歩とはそういうものなのですね。

人間はみな勤勉であったら
昔のように歩き続けていたでしょう。
怠けものだけでも進歩はありません。

勤勉と怠惰がセットになってあるから
文明の利器が発明され
時代が今日まで進歩してきたのでしょう。

中(ちゅう)

「中」というのは
常識的な意味の「真ん中」という意味ではなくて、
陰陽が相和して、そして活発に創造を進むことを
「中」というのです。


相対するものの中間点を「真ん中」といいますが、
これは「中」ではありません。
「中」というのはもっとダイナミックな創造的なものです。

あるところに仲の良い姉妹がいました。
テーブルにはオレンジが1つあり、
ふたりはそれぞれ欲しいと思っています。
どのように分けたらいいでしょうか?



パッと思いつく答えは仲良く半分分けにすることです。




姉は「どうしてオレンジが欲しいの?}と妹に聞きました。
食べたいからと妹は答えます。
姉は「ママレードを作りたいのよ」というと、さっそく皮をむき、
中身を妹にあげました。
妹は大喜びです。


Aという意見とBという意見があるとします。
単純に(A+B)÷2   でいこうと決めるのは
両者の真ん中であり、「中」ではありません。

「中」とはA,Bを吟味して、
両者が納得できる「C」という
新しい見解を創造すること


なのです。

by 安岡 正篤

見込みがある

私たちはうっかりすると、器そのものに固執します。
名陶工のだれだれが焼いた茶碗だとか、
どこどこの窯で焼いた壺だとかといって
器にばかり注目します。
抹茶の茶碗の見方も、塗りがいいとか
使った粘土がいいとか、形がどうだとか言います。
しかし、それはまだ素人さんの見方なのです。

名器かどうかを見分ける最後のポイントは、
茶碗の深さです。
それを見込みといいます。
名器は実際の深さよりもずうっと底が深く見えます。

見込みが深い茶碗を「見込みがある」といいます。
よく「見込みが」あるとかないとか言いますが
それはココから出た言葉なのです。

見込みがある茶碗でお茶を飲むと風味がいいし、
茶をすする時も、シュッと口に入ってきます。


by 境野 勝悟

人との交流は慎重に行わねばならない

     徳を成し材を達するには、
     師恩友益多きに居り。
     故に君子は交游を慎む。

    (徳を磨き優れた人間に達するには、
     恩師と友益の助けによるところが多い。
     ゆえに君子は人との交流は慎重に行わねばならない)



   吉田松陰


………………………………………………………………………………

この言葉は、吉田松陰先生が記した武士の心得、
「士規七則」(しきしちそく)にある言葉です。

松陰先生が松下村塾において学問を教えたのは、わずか2年余。
しかし、その短い期間で明治維新の原動力となる優秀な人材を
数多く輩出しました。

拓殖大学元総長で、松陰先生の姻戚に当たる小田村四郎氏は、
松陰先生が多くの優れた人物を育てることができた理由として、
松陰先生の中に、弟子とともに学ぶ姿勢、
教えることで自らも成長しようとする姿勢があり、
この姿勢に弟子たちも強く惹かれたことが大きい、
と述べておられます。

そこには、例え短い間とはいえ、
師と弟子の魂の交流とも言うべき濃密な時間が
流れていたことでしょう。

我流ではどうしても限界があります。
よき人々との交流を持つことによって、
自分の可能性は大きく開かれることを松陰先生も説いています。
自分の人生における目的を改めて確認し、
よき師、よき友に学び少しでもその目標に近づいてゆきたいものです。

諫言をする者の心構え

凡(およ)そ人を諫(いさ)めんと欲するには、
唯(た)だ一団の誠意、言に溢(あふ)るること有るのみ。
苟(いやし)くも一忿疾(ふんしつ)の心を挟(はさ)まば、
諫(いさめ)は決して入らず。


(言志録七〇条)


【訳】

人を誡(いまし)めようとにするならば、
心からの誠意を示して、
それが言葉に船れてくるようでなければいけない。

怒りや憎しみの気持ちをほんの少しでも持ったなら、
その誡めは決して相手の心には入っていかない。

あなたがいてくれてありがとう

あなたがそこにいるだけで
この場の空気が明るくなる
あなたがそこにいるだけで
みんなのこころがやすらぐ
そんなあなたに
わたしもなりたい


by 相田 みつを


建国記念日

『日本書紀』は、神武天皇が橿原の宮で即位した年を
辛酉(かのととり)紀元前660年の2月11日のこととしています。
日本建国にかかわった人物として、
神武天皇をはずすことができないとなると、
上の日本書紀の記述のとおりに建国記念日を
決定せざるを得ないと思います。

建国記念日とは、文字通り建国を記念する日であるが、
なにをもって建国とするかは、国によって異なっています。


国名 建国記念日 名称 由来

中華人民共和国 10月1日 国慶節 1949年、
毛沢東が天安門で建国宣言をした日

アメリカ合衆国 7月4日 Independence Day(独立記念日)
1776年イギリスからの独立が宣言された日

イスラエル 5月15日 独立記念日

イタリア 6月2日 共和国記念日
1946年国民投票により王制に代って共和制を政体とすることを決定

イラク 7月17日 1968年無血クーデターによってバアス党が政権を取った日

イラン 2月11日 イスラム革命記念日

インド 8月15日 独立記念日 1947年イギリスから独立した日

インドネシア 8月17日 独立記念日

エジプト 7月23日 革命記念日

エクアドル 8月10日 独立記念日 1822年スペインから独立した日

オーストラリア 1月26日 建国記念日 1788年最初の移民団が上陸した日

オランダ 7月25日 独立記念日

カナダ 7月1日 カナダ・デー 建国記念日

韓国 8月15日 光復節 1945年、日本の敗戦により植民地支配が終わった日

北朝鮮 9月9日 国慶節記念日 1948年朝鮮民主主義人民共和国建国が宣布された日

人間の能力を100%発揮させる方法

スポーツ選手が観客の目の前で
「何やってんだ」と監督に怒鳴られたとします。
そうすると、怒鳴られた瞬間にその選手の体は
緊張し、毛細血管が収縮します。

その結果、筋肉の末端に血液が通わなくなり
筋肉が働かなくなってしまう。
そして、普段通りの力が発揮できなくなってしまう。

今、日本でスポーツ医学の最先端の勉強をしている人は
高校野球の監督さんたちでしょう。
甲子園で優勝している学校の監督さんを見ていると
みなさん、ニコニコされています。
選手をリラックスさせて「楽しくやろう」と言っています。

怒鳴られると毛細血管が収縮し、
筋肉だけではなく、脳の血管も収縮するから
判断力も衰えるし、臓器もダメージを受けてしまうことになります。

くれぐれも諸先生方怒鳴らないように!(合掌)

人とヒト

人は一人で生きているうちはヒト

人の間で生きていて

初めて人間になるのです。

他人と競い、自分が勝ち上がるのが嬉しいのがヒト

仲間が喜んでくれると嬉しいのが人間




by 小林 正観

「ほんもの」と「にせもの」


  「ほんもの」と「にせもの」は
  見えないところの在り方で決まる
  
  それだのに

  「にせもの」に限って
  見えるところばかりを気にし飾り

  ますます

  「ほんとうのにせもの」になっていく



東井義雄(教育者)


 国民教育の師父・森信三師にして
 「教育界の国宝」と言わしめたのが東井義雄先生です。

 東井先生の教えを思い返すと、
 あいさつをきちんとするとか、
 乱れている箒を整頓するとか、
 当たり前のことを当たり前にすることを教わった
 と、その薫陶を受けた教え子の方は語っています。

 そんな東井先生がいつも繰り返しおっしゃっていた言葉――。


 「自分が自分の人生の主人公」
 「自分を育てるのは自分」


 東洋思想では繰り返し「慎独」の大切さを説いています。
 人の目のないところでも、
 自分を律することができるのか、という意味です。

 休みだからといってお日様が高くなるまで寝てはいないか?
 見なくてもいいテレビをダラダラ見てはいないか?

 (うーん、耳が痛いですが、自分への戒めとします……。)

 一人で過ごす時間を大切にすることが
 自分で自分を育てることであり、
 ホンモノとニセモノへの別れ道と心したいです。

 『読むだけですっきりわかる直江兼続』

新刊の紹介

豊臣秀吉に惚れられ、彼の誘いに“主君は景勝ひとり”と断った直江兼続。
本書は『読むだけですっきりわかる日本史』でおなじみの後藤武士の渾身の書き下ろし。
著者自身が、惚れた戦国武将のひとりという兼続を、新潟、米沢に訪ね、描き出す。
兼続の幼年時代から最期まで、時代背景も、関係する戦国武将も丁寧に描く。
語りかけるような文体で書き綴った、ほんとうに直江兼続がわかる一冊。

○できる限り年代順に表記

○史実はもちろん伝承もフォロー

○わかりにくい歴史事項を現代風に喩えました

○歴史ファンの間では知っていることが当然で
 解説されないような人物や出来事
 システム 背景についてもほとんど解説を加えました

○超人ではなくあえて等身大の兼続を描くことで
 逆に兼続のすごさを理解できるようにしました

○あえて一生を描きました
 直江兼続の場合は関が原以降とか
 晩年は描かれないことが多いのですが
 それをしませんでした。
 それによって
 どのように出世して
 どのように成長したかがわかっていただけると思います。

○ジャンル別にはしない
 文化人直江 側近直江 軍師直江という扱いはしない
 なぜなら彼はそれらを一つづつ異なる年代に演じていたわけではないのだから

○雰囲気を壊さない程度に易しい言い回し

・・・・・・後藤 武士先生blogより・・・・・・・・・・

【目次】(「BOOK」データベースより)

第1章 兼続誕生/
第2章 本能寺の変と豊臣秀吉/
第3章 会津への転封/
第4章 直江状と関ヶ原/
第5章 降伏、そして再建/
第6章 大坂冬の陣と兼続の最期

【著者情報】(「BOOK」データベースより)

後藤武士(ゴトウタケシ)・・・・・アール塾の推薦人の一人です

1967年(昭和42年)岐阜県生まれ。
青山学院大学法学部卒。
日本全国授業ライヴ「GTP」主宰として、北海道より沖縄・石垣まで、
児童、生徒、父母、講師、教師、会社員などを対象に講演。
また新進気鋭の若手教育評論家、最強教育指南役としても活躍。
アエラ、プレジデントファミリーなどマスコミを賑わせている

健康の三原則

第一に心中常に喜神を含むこと。

(神とは深く根本的に指して言った心のことで、
どんなに苦しいことに逢っても、心のどこか奥の方に喜びをもつということ。)

第二に心中絶えず感謝の念を含むこと。

第三に常に陰徳を志すこと。 (絶えず人知れず、善い事をしていこうと志すこと。)

by 安岡 正篤

打つ手は無限 

打つ手は無限 滝口長太郎 作

すばらしい名画よりも、
とてもすてきな宝石よりも、
もっともっと大切なものを私は持っている。

どんな時でも、どんな苦しい場合でも、
愚痴を言わない。
参ったと泣き言を言わない。

何か方法はないだろうか、
何か方法はあるはずだ、
周囲を見回してみよう。

いろんな角度から眺めてみよう。
人の知恵も借りてみよう。
必ず何とかなるものである。
何故なら打つ手は常に無限であるからだ。

by 滝口長太郎


幸と福

「さいわい」にも幸と福と二字ある。
学問的にいうと、「幸」というのは
幸いの原因が自分の中にない、
偶然的な、
他より与えられたにすぎない幸いを幸という。

たまたまいい家庭に生まれたとか、
思いがけなくうまいめぐり合わせに
ぶつかったとかいう、
これは幸。
これは当てにならない。

そうではなくて原因を
自己の中に有する、
即(すなわ)ち自分の苦心、
自分の努力によって
かち得たる幸いを「福」という。

福という字がそれをよく表しておる。
示偏(しめすへん)というのは神さまのことだ。
示というのは上から光がさしている、
神の光、叡智(えいち)の光を表す。

旁(つくり)は「収穫を積み重ねた」という文字だ。
農家でいうならば
俵(たわら)を積み上げるという文字。
神の前に蓄積されたるものが「福」である

by 安岡 正篤

狛犬(こまいぬ)

始まりはインドで、獅子(ライオン)と呼ばれ仏像の守護獣として
仏像の仏教の伝来とともにシルクロードを経て中国へ伝わり、
朝鮮から日本へ入って来ました。

一般に狛犬とよばれるのは、
神社の参道に一対で建てられている石造で、
日本の石工が想像で彫り上げた神獣です。

原型はライオン像で獅子とされていますが、
古くから木彫の仏師が獅子(右側・阿)狛犬(左側・吽)と分けて彫っていました。
只、中国まではライオン(獅子)の姿は伝わったのですが
日本には想像の動物として伝わり、
石で彫られた狛犬は日本独自の進化を遂げ、
阿吽で一対とし、装飾として走り毛を彫り、
尻尾はライオンではなく石工のオリジナルな装飾により
変化にとんだスタイルになっています。

神社の参道に狛犬が多く建てられるようになったのは、
江戸時代になってからで明治維新以後、
世の中が落ちつくまで奉納が途絶え、
明治中期から新しいスタイルの狛犬が出現し戦前まで続いた、
昭和十五年(皇紀2600年)この年に一大イベントがあり狛犬奉納のピークになった、
戦中・戦後二十年ほどブランクがあり昭和三十五年頃から狛犬の奉納が増え始めたが、
昔の形を受け継ぐ職人が激減し、規格で統一された量産品が広く流通し始めた。

神社の石狛犬は、石工が考え出した日本独自の石文化なのです。
 

逆境

人生に何が起ころうと、
慌てふためくことはない。
どんなことも大切な気づきを
もたらしてくれる体験であり、
その導きに従っていけば
幸せにつながっていけると思うべきなんです。


by 神渡 良平

逆境は神の恩寵的試練である。
苦しみや悲しみの多い人が、
自分は神に愛されているとわかったとき、
すでに本格的に人生の軌道に乗ったものといってよい。

逆境というのは存在しないのであって、
すべては神様の祝福なのだ。
そこに気づいて、自分は貴重な機会を
与えて頂いた幸せな人間だと
心底思えるようになった人は
もはや人生の大道に入ったと言って
差支えないですね。


by 森 信三

「君子」と「小人」

北尾 吉孝氏 曰く

「小人とは、自分のことだけしか考えず、
他のために尽くすことができない人、小人物を指します。
その反対に、自分の才能を他の人々のために尽くすことのできる者は
それだけ人物が大きいことになりますから、
これを小人に対して君子と言うのです」


ではなぜいま君子が求められているのでしょうか?


それは、現在の社会的混乱は人の上に立つ人間が
自らの利益ばかりを考える小人的生き方をしていることに
端を発していると北尾氏は説きます。
そこで古典で心を養い、古典がいうところの君子を目指すことが
求められているのです。


君子になる条件として、北尾氏は以下の6つを挙げています。

1、徳性を高める。
2、私利私欲を捨て、道義を重んじる。
3、常に人を愛し、人を敬する心を持つ。
4、信を貫き、行動を重んじる。
5、世のため人のために大きな志を抱く。
6、世の毀誉褒貶(きよほうへん)を意に介さず、不断の努力を続ける。

北尾 吉孝「君子を目指せ小人になるな」 致知出版社より

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プロフィール

矢野 一成

Author:矢野 一成
愛媛県新居浜市 アール塾塾長

備忘録、すなわち
忘れたときのために備えて、
書きとめておく、
個人的な雑記帳です。

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