日本一アツイ教育を実践する男が語るBLOG

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

中今の思想

分かり易く言えば
「今を一生懸命に生きる」と言っても良いでしょう。
過去は顧みるものですがそこに留まっていてはなりません。
又将来に夢を描いてそこに空想するだけではいけません。

「今この時を大切に生きる」ことが
結局は最も効果ある後悔のない生き方です。
一生懸命に生きると言うことは
「努力する」「耐える」ということです。
「耐え忍び努力をする」と言うことです。

努力の過程で大切なことは「現実を厳しく観る」ということです。

自由だ、権利だと叫んでみても世の中は変わりません。
「人間として薫り高い尊敬に値する人間」は
「失敗をしても七転び八起きで涙ぐましい努力で
自分の人生を切り開いた」人であります。
「不幸、不運を他人のせいにしても解決にはなりません」。
どうか「夢を志に進化」させて「志」実現に向かって
「諦めず努力する」ことを忘れてはいけません。
一度や二度の失敗でくじけずに
「自分は負けないという気概」と「へこたれないという決意」が必要なのです。



スポンサーサイト

比べるな

 「人と比べる。
  それが一流と超一流の違いです。

  プロになるくらいだから、みんな一流選手ですよ。
  しかし、人との比較でやっている人は、
  途中で苦しいことがあると諦めます。
  あるいは、人より少し結果が上だと
  “俺はよくやっているよ”と。

  しかし、どこまでいっても満足しない、
  どんなに苦しくても諦めない、
  自己の描いたイメージを
  とことん追求する人たちがいるんです。
  それが超一流です」


 言い換えれば、超一流の世界は
 人との競争ではなく、己に克つ世界だといえそうですね。

 どんなに苦しくても
 自分の誠実な努力は天が知っている。
 どんなにうまく物事が進んでも、
 自分が怠けたことは天が知っている。

 いつも「天知る、地知る、我知る」の精神で
 己を律し、超一流の世界に足を踏み入れたいものです。



西田文郎(サンリ会長)

心頭滅却すれば、火自ずから涼し

人間は逆境の時をどう生きるか

これが勝負ですね

逆境の時に愚痴や不平を言ってたりしたら

人生の敗残者になる


逆境・苦境の時にそれを縁として

自分を築きあげていく


逃避することなく

断念することなく

じたばたせず

静かに潜水して

その環境の持つ意味と価値を

見つける努力をするなら

新しい人生が開けるでしょう



松原 泰道『百歳の禅語』より

本当の読書

安岡先生は人物を養う上でもっとも大事な秘訣は
二つあるといっています。

一つは、古今のすぐれた人物に学ぶこと。

我々と同時代のすぐれた人物だなぁ

という人のところに行って学ぶ。

これは大事ですね。

では、身近にすぐれた人物がいないときにはどうするか?

そういうときには

「偉大なる人物の面目を伝え、

魂をこめておる文献に接すること」

だといいます。いい言葉ですね。




ー『安岡正篤 心に残る言葉』P73よりー

第一段階 成功から生まれる傲慢

第一段階 成功から生まれる傲慢


第二段階 規律なき拡大路線


第三段階 リスクと問題の否認


第四段階 一発逆転策の追求


第五段階 屈服と凡庸な企業への転落か消滅



これを見ると、衰退の段階というのは
古今東西共通していることを改めて実感させられますね。


まず第一段階は「成功から生まれる傲慢」です。

私は常々
「成功している企業は、成功体験に依存して酔いしれてしまう」
と言っています。

たまたま運よく成功しているかもしれないのに、
それを否定して、自分の実力で
会社が繁栄しているのだと思い込んでしまう。


この本にも、運を否定してはいけないと書いてあります。

運やツキについて思うところを少しお話ししますと、
NHKの中でも、あいつはよくスクープをとってくる、
運がいいなといった言葉が交わされます。

しかし、運とツキというのは、
神様が誰に対しても公平に与えているものなのです。
問題は、その運やツキを掴むか逃すかなのです。


自分の持ち場で、自分のやるべきことを、
やるべき時に、キッチリとやっていたら運は逃げません。
それをやらないから運やツキが逃げるんです。

先ほどの話に戻ると、成功すると運を否定して、
すべて自分の実力だと思いがちだけれども、
それは傲慢です。

成功している経営者は、運を逃さなかった。
運を逃さないために、自分のやるべきことを
キッチリやったのだと理解したら納得できると思います。

ここで付け加えておきたいのが、
人は過去の成功体験に依存してしまいがちだということです。


私はスーパードライの爆発的ヒットに
関わることができましたが、それから十数年経っても、
「スーパードライの成功物語を講演してください」
というご依頼をいただくことがありましてね。
私は全部お断りしました。


つまり、当時の経済環境や消費者の嗜好の変化など、
いろいろな条件が重なった中で、
スーパードライという一つの狙いが当たったのであって、
同じ環境は二度とない。

だからそれをいま話しても意味がないわけです。
一つだけ言うとすれば、
アサヒビールがどん底の中でもう一度顧客目線に立ち返り、
他社と差のなかった味というものに挑戦した。
これが成功に結び付いたのだろうと。

ただ、それでは一分で話が終わってしまうから
講演にならないわけです(笑)。

要するに、一度成功を果たすと、
その成功体験に酔いしれて、同じ夢を追いがちなんです。
それが衰退の第一段階だと
『ビジョナリーカンパニー』も説いているのです。




●衰退を乗り越える組織の条件
『ビジョナリーカンパニー』に学ぶ

       福地茂雄(日本放送協会前会長)

ただの“アホ”

●西田文郎(能力開発の第一人者)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

   成功者とは何かといえば、
   常識で考えれば九十九%は無理だと思われることを
  「絶対にできる!」と思っている、
   ただの“アホ”なんです(笑)

“教” “育” の 語 源


“ 教 ”という字は、

「×」と「子」と「文」からできている。

「×」は“ムチ”、「文」は“太鼓とバチ”を意味して「ポク」と発音する。

つまり「教」とは、ムチ(×)で子供(子)をポクと(文)“なぐる”の意である。

「おしえる」が、元来「おししいる」(押し強いる)だったことにも呼応する。



それに対し、“ 育 ”は、

「なべぶた+ム」(上の部分)と「月」からできている。


「なべぶた+ム」(上の部分)は、

「子」が逆さになっている状態→新生児を表す。

「月」は、「肉月」(にくずき)とも言うように、

「肉がついていく」ことの意。

すると、「育」とは、

「新生児」(上部)に「肉がついていくこと」(月)を意味する。

「そだつ」とは、まさに「そば立つ」

(そばに立って見る)という意味。



「教育」とは、ムチで叩く(押し強いる)局面と、

見守る局面の両面が必要。

生徒主導か、教師主導か、

などという二者択一の問題ではない。

どちらか一方に「割り切れない」ことが、

教育の魅力であり、葛藤である。

自由と勝手

「自由」には制限があります。
限られた枠の中で、他者に迷惑をかけることなく、
自分なりに楽しむのが「自由」です。

「自分勝手」は、
「自分さえ良ければ何をやってもいい」
という行動や考え方です。
自由も自分勝手も表裏一体の存在です。
自由を履き違えると自分勝手になります

幸福について

『ある人は幸福を感じ、
          
ある人は同じ目にあっても不幸を感じるのは
          
何かと言えば、それは心の用意のちがい、
          
心の置き処がちがうからである』

          


武者小路実篤 「幸福について」..


幸不幸は心しだいで感じ方が違う
幸せになれる心(の働き・能力)を養うことが肝要
ではないでしょうか?..

「挨拶」

"挨"は積極的に迫って行くこと、

"拶"は切り込んでゆくこと。

修行者が師家に問題を持ちかけて答えを求め、

師家が問答を交してその力量を計ること。




松原 泰道

卒啄同時 (そったくどうじ)

卒啄同時 (そったくどうじ)

 卵の中からヒナが殻を破って生まれ出ようとする瞬間、
内側からヒナが殻をつつくのを「そつ」、外から親鳥がつつくのを「啄」という。
このタイミングが合わないとヒナは死んでしまう。
この自然の不思議さを表現した言葉が「卒啄同時」である。
「卒啄の迅機」ともいう。

禅の世界では、師匠と弟子の間で佛法を相続、
伝授するときに使われる大切な言葉である。
師匠から弟子へと伝えられている佛法を、コップの水に例え、
「一器の水を一器のうつわに移すがごとく」と表現している。
弟子の器が小さ過ぎると水(佛法)はこぼれてしまう。
器が大き過ぎると物足りないものである。
絶妙のタイミングが要求される。

師匠の悟りの力量と弟子の悟りの力量が、
同等でなければならないのである。
ヒナに力がないとき、親鳥が啄(つつ)けば
ヒナは死んでしまうのである。

反対に親鳥に啄く力がないときも、
ヒナは死んでしまうのである。
ここで問題となることは、
タイミングを間違えるとどちらの場合も、
ヒナが死んでしまうということである。
弟子の立場からいえばたまったものではない。
しかし、どう理屈を並べようが、
どうしようもない立場なのである。
師匠は師匠であり、弟子は弟子である。
この立場が混乱してしまい

次のような逸話も生まれてくるのである。
ある修行僧は師匠のもとへ押しかけ「悟りの機が熟しました。
どうか、啄いて、殻を破ってください」と言った。
師匠は「啄いても良いが、命は大丈夫か」と問うと、
生意気にも「弟子の私が悟らなければ、
師匠のあなたが物笑いになりましょう」と答えた。
師匠は途端に「未熟もの」と一喝した。
この一喝が師匠の「啄」であったのである。
師匠の一喝は、慈悲心の表れである。



禅語百選   松原 泰道より

何者ぞ

     何者か割れたり 我が中にありて
     閉じられしもの割れたり 
     かれらみな声を挙(あ)げて叫び出せり
     桃の実のごときもの割られたり
     星のごときもの光出(いだ)せり


         (室生犀星「何者ぞ」)

人の欠点を指摘しても得るところはない

  『われまさに人の長所を視るべし、人の短所を視るなかれ。
   短所を視ればわれ彼に勝つ、われにおいて益なし。
   長所を見れば彼われに勝つ、われにおいて益あり』
 



佐藤一斎


  人の短所・欠点を見てもいいことはない。


  『他人の短所を見れば憂うつになり、
   他人の長所を見れば人生が明るくなる』
 


デール・カーネギー

木を買わず、山を買え

搭組みは、木組み

木組みは、木のくせ組み  

木のくせ組みは、人組み  

人組みは、人の心組み



西岡 常一(法隆寺・薬師寺修理工事の宮大工)

「随処に主となる」

いまの若い人たちも就職難とはいえ、
   どこの会社にでも入れればよいという発想ではなく、
   自分の意思を十分に働かせ、
   「よし、俺はこの道を開くんだ」と
   たくましく夢を描いてほしい。

   賽(さい)を振ってその方向へ行くようなやり方は、
   勤め先からも歓迎されず、
   自分自身の夢を持つことにも繋がらないからである。


           中條高徳(アサヒビール名誉顧問)


中條氏は言われます。


「一番大切なのは、中小企業の創業者が
 持っているような精神を持つということ。
 


そのことで痛い目に遭ったり、
 辛い思いをすることはあっても、
 張り合いがまるで違ってくる。
 
 大企業に入ると、自己を埋没させてしまいがちだが、
 そうなっては意味がない。
 福沢諭吉翁が言うように、“自主独立”の概念は
 いつの世にも持ち合わせていなければならないのである」
 

大切なのは
どんな状況や立場にあっても、
常に、自分が自分自身の人生の主人公である、
という気概を持って生きることではないでしょうか。

自己を忘れる

すると世の中のすべてがはっきりと見えてくる


仏道を学ぶということは

自己を学ぶということである

自己を学ぶということは

自己を忘れることである

自己を忘れるということは

すべてのものごとが

自然にあきらかになることである



道元「正法眼蔵」

よい本を読め

よい本を読め

よい本によって己れを作れ

心に美しい火を燃やし

人生は尊かったと

叫ばしめよ


坂村真民(仏教詩人)

平成23年、日本は皇紀2671年である

ギリシャ神話は有名だが、
神々の系譜は神話の中だけで完結、断絶し、
いまに繋がっていない。

 日本は、天照大神の系譜に繋がる
 万世一系の天皇という具体的な存在を軸に、
 我われの先祖は目に見えないもの、
 人知を超えたものを畏敬し、尊崇する心を、
 2000年以上にわたって持ち続けてきた、ということである。
 
 そしてこの民族の魂は今日もなお生き続けている、
 ということである。

 目に見えないものへの畏敬、尊崇の念は、
 自らを律し、慎む心を育んでいく。


「心だに誠の道にかなひなば祈らずとても神や守らむ」
 という心的態度はこの国に住む人たちに
 共通した価値観となって定着した。
 
 言い換えれば、私たちの先祖は
 「自反尽己(じはんじんこ)」に生きたのだ。
 
 自反とは指を相手に向けるのではなく、自分に向ける。
 すべてを自分の責任と捉え、自分の全力を尽くすことである。
 そういう精神風土を保ち続けたところに、
 この国の繁栄の因がある。


 同時に忘れてならないのが、我々の先祖が
 絶えず後から来る者のことを考え、
 遠き慮の心を持ち続けたことだろう。
 
 詩人の坂村真民さんは
 そういう先人の祈りを象徴するような詩を残している。



  あとから来る者のために


  田畑を耕し 種を用意しておくのだ


  山を 川を 海を きれいにしておくのだ


  ああ あとから来る者のために


  苦労をし 我慢をし みなそれぞれの力を傾けるのだ


  あとからあとから続いてくる あの可愛い者たちのために


  みなそれぞれ自分にできる なにかをしてゆくのだ


【進歩向上の工夫】

● 安岡 正篤

いかにすればいつまでも
進歩向上していくことができるか。

第一に絶えず精神を仕事に
打ち込んでいくということです。
純一無雑の工夫をする。

純一無雑などと申しますと
古典的でありますが、

近代的にいうと、
全力を挙げて仕事に打ち込んでいく、
ということです。


人間に一番悪いのは 
 雑駁(ざっぱく)とか
 軽薄とかいうことでありまして、
 
 これは生命の哲学、
 創造の真理から申しましても
 明らかなことでありますが、
 これほど生命力・想像力を
 害するものはありません。

 また生命力・創造力が衰えると、
 物は分裂して雑駁になるものであります。
 これがひどくなると混乱に陥ります。

 人間で申しますと
 自己分裂になるのです。
 そこで絶えず自分と言うものを
 何かに打ち込んでいくことが大切であります。

【人間の不幸】

● 安岡 正篤

何ものにも真剣になれず、
したがって、何事にも
己(おのれ)を忘れることができない。

満足することができない、
楽しむことができない。

したがって、常に不平を抱き、
不満を持って何か陰口を叩(たた)いたり、
やけのようなことを言って、

その日その日をいかにも雑然、
漫然と暮らすということは、
人間として一種の自殺行為です。

社会にとっても非常に有害です。
毒であります。

学問の目的


それ学は通(つう)の為にあらざるなり。
窮(きゅう)して困(くる)しまず、
憂(うれ)へて意(こころ)衰(おとろ)えざるが為なり。
禍福終始(かふくしゅうし)を知って
惑(まど)わざるが為なり。

荀子〕

通とは通達するということです。
学問というものは
決して出世や生活のための手段ではない。
窮して悲鳴をあげたり、
心配事のために
直(す)ぐぺしゃんこになるようでは学とは言えない。
何が禍であり何が福であるか、
如何(いか)に始まり如何に終るか、
ということを知って
惑わざるが為である。


人は何のために学ぶのか。

安岡正篤師は言っている。

学は己の為にす
己を為むるは安心立命を旨とす
志は経世済民に存す
志を遂ぐるは学に依る
学に依って徳を成し材を達す
成徳達材を立命とす


人は自分を創るために学ぶのだ。
そして、人生のあらゆる艱難辛苦にあっても動じないように、
自分を為めていく。
自分を創るのは利己のためではない。
世のため人のために自分を役立てるためである。
自分を役立てるには、自己の徳を大成し、
自己の才能・能力を錬磨、向上させていかねばならない。
それが学の本質である。成徳達材することによって、
よりよき運命を創っていくのだ

──安岡師の言葉は明解である。

「人々貴きものの己に存在することを認めんことを要す」
──人々は貴いものが自分の中に存在することを認める必要がある、


と松陰先生もは言っている。

その尊いものに気づき、
それを発揮していくことこそ、
人としての道だ、ということでしょうね。


 

みんな集まってほん気できけよ

みんな集まってほん気できけよ
 まづ第一に毎朝起きたら
 あの高い天を見たまへ
 お天気なら太陽
 雨なら雲のいる処だ
 あそこがみんなの命のもとだ
 いつでもみんなを見ていてくれるお先祖さま だ・・・・
 えらい人や名高い人にならうとは決してするな
 持って生まれたものを深くさぐつて強く引き出す人になるんだ
 天からうけたものを天にむくいる人になるんだ
 それが自然とこの世の役に立つ



高村 光太郎

「滴骨血」(てつこつけつ)


王陽明の言葉なのだそうです。

引用「師は自分の血を弟子の骨に注ぎ込む。

弟子もその血を骨に吸い込むように受け取る

心血を心骨に注ぐ。教えの伝授はとういうもので

なければならない」と。




つまり、「思い」。思いを込めて向き合う極地。

常にそういう「一念」が現状を打破する。

人の思いが人生を創り、時代を創る。

生徒達に向き合うとき、つねに思いを持って、

彼ら彼女らの人生に関わらせてもらえることに

幸福を感じて、「思い」を注ぎ込んで育てることで

新しい何かが見えてくるのだと思います。

深い言葉です

私がこの世に生まれてきたのは

「わたしは無駄にこの世に生れてきたのではない。

また人間として生れてきたからには

無駄にこの世を過したくはない。



私がこの世に生れてきたのは

私でなければできない仕事が

何か一つこの世にあるからなのだ。

それが社会的に高いか低いか

そんなことは問題ではない。

その仕事が何であるかを見つけ、

そのために精一杯の魂を打ち込んでゆくところに

人間として生れてきた意義と生きてゆくゆろこびがあるのだ


相田 みつを

外甥政直に示す

  一貫唯唯諾  一貫、唯唯(いい)の諾
  従来鉄石肝  従来、鉄石(てっせき)の肝
  貧居生傑士  貧居(ひんきょ)、傑士(けっし)を生み
  勲業顕多難  勲業(くんぎょう)多難に顕(あら)わる
  耐雪梅花麗  雪に耐えて梅花麗(うるわ)しく
  経霜紅葉丹  霜を経て楓葉(ふうよう)丹(あか)し
  如能識天意  如(も)し、能(よ)く、天意を識(し)らば、
  豈敢自謀安  豈(あに)敢て、自から安きを謀(はか)らむや



(解釈)
引き受けたと心にちかったことは、
どこまでもただただひたむきにやり通さなければならない。
鉄の如く石の如く守ってきた胆力は、
いつまでもそれを変えてはならない。
豪傑の士というものは貧しい生活をしてきた人の中から現れ、
勲評価される事業というものは多くの困難を経て成し遂げられるのだ。
梅の花は雪に耐えて麗しく咲き、
楓の葉は霜を経て真赤に紅葉する。
もしこれらの天意が理解できたのなら、
安楽な生き方を選ぶことなどどうして出来ようか。


西郷 隆盛

刻苦勉励

人生には他人との

闘いというものは存在しない

あるのはただ

自分の弱さとの闘いのみである

そのことが骨身にしむるほどに

わかってくると

愚痴を言わなくなる

他人のせいにせず

刻苦勉励して

夢を成就し

それによって恩返しをする

刻苦というのは

それほど重たいことなのだ



神渡 良平

幸と福

● 安岡 正篤


「さいわい」にも幸と福と二字ある。
学問的にいうと、「幸」というのは
幸いの原因が自分の中にない、
偶然的な、
他より与えられたにすぎない幸いを幸という。

たまたまいい家庭に生まれたとか、
思いがけなくうまいめぐり合わせに
ぶつかったとかいう、
これは幸。
これは当てにならない。


そうではなくて原因を
自己の中に有する、
即(すなわ)ち自分の苦心、
自分の努力によって
かち得たる幸いを「福」という。

福という字がそれをよく表しておる。
示偏(しめすへん)というのは神さまのことだ。
示というのは上から光がさしている、
神の光、叡智(えいち)の光を表す。

旁(つくり)は「収穫を積み重ねた」という文字だ。
農家でいうならば
俵(たわら)を積み上げるという文字。
神の前に蓄積されたるものが「福」である。


人生は各駅停車の旅

■篠原鋭一氏(6000人の自死志願者に語り続ける住職)

人生は各駅停車の旅なのです。
特急電車に乗ったら見えない途中の風景も、
各駅停車に乗ればじっくりと楽しめます。

時に歩みを止めてもいい。
心身を総動員してその風景を感じ取る。

コツコツ積み上げていくうちに
力が付いて人生が分かってくるのです。

PageTop

プロフィール

矢野 一成

Author:矢野 一成
愛媛県新居浜市 アール塾塾長

備忘録、すなわち
忘れたときのために備えて、
書きとめておく、
個人的な雑記帳です。

最新記事
最新コメント

月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム

RSSリンクの表示
リンク
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。