日本一アツイ教育を実践する男が語るBLOG

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生成化育

競争心が芽生えると、
それを他者に向けると争奪戦を始めることになります。
宇宙の原理は競争ではなく、創造なのです。

ほとんどの人が、子供の頃から、
「他の人に負けるな、
勝って泣け」などという吹き込みを、受けています。

上を目指すことは素晴らしいことですが、
その時他者を意識して、
その存在との勝ち負けを
エネルギーに変えるようなやり方を、
あらゆる場面で使おうとしてきた癖がある人は、
一つのテーマが終わるたびに、
心身の喪失感や、折角獲得したステージを喪失する
不安感などに苛まされます。

これは、宇宙の原理そのものには、
決して競争原理が働いていないにも関わらず、
無理やり作り出したエネルギーを使おうとするからです。

何らかのエネルギーを出しますと、
それがそのまま返ってきます。
愛を出せば愛が返り、
怒りを出せば怒りが返るのです。
争奪戦はエネルギーの奪い合いです。

出したものがそのまま返ってくるという
とてもシンプルな原理なのですが、
競争心を捨てきらないと、
結果にこだわるあまりに、
もしくは他者と比較したり、
他者の評価を気にしたりして、
自分を攻撃して下さいと
言わんばかりのエネルギーを、
回りに発することに陥ります。
そして、知らぬうちに自分の理想への
エネルギーが消耗していきます。

他人と競争するのではなく、
創造力を働かせることにより、
豊かになれるのです。
日常あらゆるところで、
目や耳に、自分の願望に相応しくない
いろんな悪しきものが飛び込んでくるでしょう。
その中で、あなたという偉大なただ一つの命は、
自分の発想と一層の幸福を
成就させるために動き続けています。
できるなら、自分の理想に
合わないものには関わらないことです。


全ては生成過程にあるのが、宇宙の真実です。

その宇宙にあるたった一つの命である私達もまた、
生成過程の中にあるのです。
私達が仕事をすることも、
私達が誰かを好きになり愛することも、
私達が好きなことを続けていくことも、
全ては生成化育していく私達本来の姿なのです。

そこに、競争原理という幻想は、一切存在しません。
競争心を放棄しさえすれば、
あとに残るのは、
どんどん生成されていくという
普遍の原理だけなのです。

ただ自分に素直になり、
自分の理想のイメージを描き、
それを無限の叡智に告げ、
ただいまただいまを
愛と感謝と誠で集中するだけです。
「つかまえ放すの法則」を上手に活用し、
全ての結果に感謝していく人であって下さい。

そうすれば、私達は私達の理想に、
今日も近づいています。
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【五 美】

人を恵んで厭味(いやみ)なく、
労して怨(うら)みず、
欲して貪(むさぼ)らず、
泰(ゆた)かで驕(おご)らず、
威あって猛(たけ)からず─と。



(論語・堯日[ぎょうえつ])

人は誠にかくありたいものである。

プラスの3K

感動


希望


工夫



松原 泰道

営業マンの鉄則15箇条

 1、教養を身につけ、人間性を養え


 2、旬を逃すな


 3、たえず、相手の幸せを考えよ


 4、自分の心をコントロールできるようになれ


 5、服装、身なりは清潔に


 6、自分が経営者で社長であると思え


 7、親しき仲にも礼儀ありでゆけ


 8、態度は低く、心は高く


 9、客を育てよ


 10、商品を学び、自信を持て


 11、目標と計画をしっかり立てよ


 12、逆境に負けるな


 13、男は度胸、女は愛嬌でゆけ


 14、テクニックを研究せよ


 15、人に負けることが、当たり前になるな



林薫(ハヤシ人材教育研究所所長)

【聞き上手の活学】

話し上手より聞き上手ということがある。

自分が接するあらゆる人から、
その専門の智識(ちしき)体験をきき、
わがものにすることが出来れば活学というべきだ。



安岡 正篤

【死後に残るもの】

一人物の死後に残り、
思い出となるのは地位でも財産でも名誉でもない。

こんな人だった。
こういう嬉しい所のあった人だというその人自身、
言い換えればその人の心・精神・言動である。

このことが、人間とは何かという問の真実の答になる。



安岡 正篤

【運命と宿命】

宿命に任せたらそれこそ惨膽(さんたん)たるものである。

ところが、それに手を加えると、
まったく別な運命を打開することができる。

それは、放っておけばどんな被害を生ずるかもしれない水を、
うまく治山(ちさん)治水(ちすい)をやりさえすれば、
逆にどんなに作物を潤(うるお)し、
あるいは観光の人々の目を慰(なぐさ)め、
いろいろの利益のあるものにすることができるものか、
それと同じである。


安岡 正篤

仏教の教え

上求菩提

下化衆生

(松原 泰道)


己の人間性を向上させ

少しでも世のために尽くすこと

仏教の教えだ


何の為に

我々は生を受けたのか

その意味を探し続け

日々生きている

何も考えずに生きることも

生なのかも知れない

しかし我々は使命をもって

この生を受けているはずだ

その意味を考えるほうが

より人間らしい

間違えなく言えること

それは自分勝手に生きることが

生を受けた目的ではないということ

自分自身の人間性を高めることを

日々考え行い

周りの方の喜びのために

一つずつ行動していくこと

それを行うために

今日も目が覚めた

そのために我々は活かされている

本当の教育というもの

「本当の教育というものは、

菊を作ったり蘭を作ったりするものとは違う。

農家が菜っ葉大根を作るのと同じことである。

菊作り、蘭作りというのは

特殊教育、特別な人間が、特別な目的でやることであって、
 
一般の人間学、人間教育というものは、

農家が菜っ葉大根を作るように

出来のいいものも悪いものも一様に可愛がって、

瓜は瓜なりに、

茄子は茄子なりに作り上げることである。」



<知命と立命〜安岡正篤著より>

心訓七則

一、世の中で一番楽しく立派なことは、一生涯を貫く仕事を持つことです。

一、世の中で一番みじめなことは、人間として教養のないことです。

一、世の中で一番寂しいことは、する仕事のないことです。

一、世の中で一番醜いことは、他人の生活をうらやむことです。

一、世の中で一番偉いことは、人のために奉仕し、決して恩にきせないことです。

一、世の中で一番美しいことは、総てのものに愛情を持つことです。

一、世の中で一番悲しいことは、嘘をつくことです。



福沢 諭吉

【器量と辞令】

「あれは器量人だ」という言葉が
通俗用語になっておりますが、
これは人間の具体的存在を
器という字で表現しているもので、
人間の大きさ、
深さを量(はか)る言葉として
用いている言葉であります。

あれは頭が良い、よく出来る。
けれども人を容(い)れない。
人を用いる量がない。
深みがないなどといわれる人があります。
度量、器量ということが
良く考えられなければならないわけです。

もう一つ人物の応対辞令という言葉がありますが、
応対というのは、
いろいろな問題に応じて
きびきびと処理してゆくことであり、
辞令とは事に対して
自分の考えを適確に表現してゆくことです。
この応対辞令は大変大事でありますが、
俄(にわ)か仕立てではどうにもなりません。
結局平素の修業に
俟(ま)つほかはないのであります。


安岡 正篤

【人間の価値】

ずるいことをやったり、
人を押しのけたりして、
地位や財産をつくるのも
人間の能力、知能の一つであります。

それを使っていろいろのことができる。
できるけれども、
そんなことができても、
これは人間としては少しも偉いことではない。
社会的には偉いかも知れぬが、
人間としてはむしろ恥(は)ずべきことであります。

何を為(な)すか、
何をしたかということと、
彼はどういう人間か、
如何(いか)にあるか、
ということとは別である。

賜生

賜生(しせい)とは耳慣れない言葉だが
そもそも、自分の意思でこの世に生まれてきた人は一人もいない。
人は皆、何か知らない力によってこの世に生み出されてくる。
賜った命であり、人生である。

(中略)

一つの感慨が浮かび上がってくる。
自分の体、自分の命は自分のもの、
と私たちは思っている。
だが、すべては天地から借り受けたものなのだ、
ということである。

天地から借り受けたものならば、
粗末にせず、その価値を十分に発揮させ、
時期がきたらお返しする。
それこそが天地の心にかなう生き方であろう。

天地から賜った自分という人格を年とともに成熟させ、
もっとも完熟した形で生を終える・・・

そういう人生を歩みたいものである。
「神仏から喜んでもらえるほど心が育っているか。
宇宙はかぎりない恵みの海である。
狭い利己主義の目では見えない。」

ある先達の言葉である。》

「生きている」という傲慢な心を捨て、
「生かされている」という認識に立つということを言われている。
このことは理解できるが、
問題は、「しからば日々どのような生活態度をすればよいか」、
ということである。

心に感じたことや頭で考えたことを、
行動に表してこそ「理解できた」のであり、
「言葉だけ」を口にしていても進歩はなく、
理解しているとは言いがたい。

そこで気がついたのは、アインシュタインの言葉である。

人は何のために生きるのか、という問いに答え、
「人は人のために、自分以外の人のために生きるんだ。」・・・と。


「生かされている」とは、何かの使命を持っているということ、
それは「世のため人のため」に生きるということであろう。
世のためになること、人のためになることを日々実践するということである。


今の最大関心事は「人づくり」であり、「町づくり」である

泥を肥やしに咲く花

 私が愛知県西尾市にある浄名寺に預けられたのは、2歳7か月の時です。

 幼い頃に両親は亡くなったと聞かされ、親代わりの庵主様や、世間様の
 「お寺の子はいい子だ」という期待の中で育ちました。

 同級生からはその逆に、お寺の子であることや、
 実の親のないことをからかわれ、酷い苛めを受けてきましたが
 「どんな時も前向きでいよ」という庵主様の教えを守り、
 泣き出したくなる気持ちを必死に堪えながら幼少期を過ごしました。
   * *
 張り詰めていた神経の糸が切れたのは、中学2年の時です。
 役所に、ある書類を提出する際、庵主様から
 「実はねぇ」と言って、出生の秘密を打ち明けられたのでした。

 聞けば、両親は私が幼い頃に離婚し、母親が再婚する際、
 娘の私をお寺へ預けたというのです。
 自分は生まれてきてはいけない存在だったんだ。
 一体何を信じて生きてきたのだろう?
 事実を知った私は、頑張るということに疲れてしまいました。

 そして3か月間泣き通した後、私が選んだ道は、
 髪の毛を金色に染めて、耳にピアスの穴を開け、
 あらゆるものに歯向かい、強がって見せることでした。

 暴走族の仲間たちと一晩中走り回り、家出を繰り返す毎日。
 14歳で手を出した薬物はその後7年間、
 1日としてやむことがなく、私など消えてしまえ、
 という思いから、幾度となく自傷行為を繰り返しました。

 心配をした庵主様は、私が20歳になった時に
 最後の賭け」に出たといいます。
 私を京都の知恩院へ21日間の修行に行かせ、
 そこで尼僧になる決意をさせようとしたのです。

 金髪のまま無理やり寺へ押し込められた私は訳が分からず、
 初めのうちは反発ばかりして叱られ通しでした。
 ところが10日目を過ぎた頃、教科書に書かれてある仏様の教えが、
 読めば読むほど、庵主様の生き様そのものと重なることに気づいたのです。

 例えば「忍辱(にんにく)」という禅語があります。
 私がグレていた7年間、普通の親であれば
 間違いなく音(ね)を上げてしまうような状況で、
 庵主様はただひたすら耐え忍んでくれたのだ。
 それは親心を越えた、仏様の心というものでした。

 また道場長から「少欲知足」という言葉を教わり、

 「髪の毛や耳のピアスなど、自分を着飾る物
  すべてを取り払っても、内から輝けるようになりなさい」

 と言われました。人間は無駄な物の一切を削ぎ落とした時に、
 初めて自分にとっての大事なものが見え、
 本当の生き方ができるようになるのだというのです。
 私はふと、庵主様の生活を思い浮かべました。
 庵主様はお洒落もしなければ、
 食べる物にお金を掛けたりもしない簡素な暮らしで、
 他の楽しみに時間を使うこともなかった。

 ではその分、一体何に時間を使っていたか。
 そう考えた時に、庵主様はすべての時間を
 「私を育てる」という一事に使ったのだと知ったのです。

 私の思いの至らなかった陰の部分では、
 どれだけ多くの人が自分を支え続けてくれたことか、
 御仏の光に照らされ、初めて親のお陰、
 世間様のお陰に手を合わせずにはいられなくなりました。

 そして教科書を読み進めれば進めるほど、
 止めどもなく涙が溢れてきました。
 修行の後、お寺に戻った私が庵主様に、
 なぜ私を叱ったり、本当の気持ちを
 聞かせてくれなかったのかと尋ねたところ、
 庵主様は

 「人間は、時が熟さなければ分からないことがある。
  ひと月前のおまえに私がどれだけよい言葉を聞かせても、
  かえって反発を生むだけだった。

  いまおまえが分かるということは、
  おまえに分かる時がきたということだ。
  仏道は待ちて熟さん」
 とお話しになりました。

 庵主様には1つの願心があり、
 私がグレ始めた14歳の時に、10年間は黙って
 この子を見守ろうと決めたのだといいます。
 そして自らには、何があっても
 「平素のように生きよ」と誓いを立てたということでした。

 私はいわば、お釈迦様の手の平の上で暴れていた
 孫悟空のようなもので、自ら命を絶とうと人生に背を向けていましたが、
 どこまでいっても結局は庵主様の手の平の上にいた。
 
 庵主様が私を慈しんでくださる心は無限に広大で、
 私はその大きな大きな慈悲の中に
 生かされていたのだと知ったのです。
   * *
 23歳で剃髪出家をした時、私は庵主様に
 「紗蓮」という法名をいただきました。
 後にある方から

 「美しい蓮の花は、泥まみれの池の中にしか咲かないのだよ。
  人生にも、悩みや苦しみはあって当たり前で、
  その泥を肥やしにしてこそ大輪の花が咲くのだ」
 と教わりました。
 振り返れば、14歳から20歳までのどん底の時代が、
 私にとってはまたとない、よい肥やしになったと感じています。

 今年31歳になった私ですが、現在はお寺でのお勤めの他、
 市の教育委員会からの要請で、悩みを抱える子供たちの
 自立支援相談や講演活動を行ったりしています。

 非行に走る子供たちはそれぞれに、人に言われぬ苦悩を抱えています。
 けれども、だからこそ大きな可能性を秘めている。
 人一倍光るようになるよ、この子たちは――。
 私はいつもそんな気持ちで子供たちのことを見守っています。


松原 紗蓮

【家庭教育】

いままで学校教育こそが
教育だと思っておったが、
しかしこのごろは
ヨーロッパでもアメリカでも、
教育は学校がやると思っているのは
よほど後(おく)れた人間でありまして、
あらゆる教育家・教育学者は、
「教育はやっぱり家庭教育である。
 学校教育は家庭教育でできたものを受け取って、
 これに手入れをするところだ」
と考えている。

日本のように、
教育と言えば、
子供をどんな手段を使っても学校へ入れるんだ
と考えているのは、
文明国ではよほど後れておる。



安岡 正篤

国家四維

国家を維持するに必要な四つの大綱があり、

それが絶たれると国が危うくなるというものです。

 
 一つは礼。つまり人間関係や秩序を維持する倫理的な規範です。
 
 二つ目は義。いわゆる道徳的なものに適(かな)っているかどうか。
 
 三つ目は廉(れん)。無私無欲。
 
 四つ目は恥(ち)。恥を知ること。
 



安岡 正篤


 この四つに照らしていまの日本を見ると、
 危惧されることが多々ありますね。

後悔と反省

後悔は過去を変えようとする事

反省は未来を変えようとする事

【腎を養う】 

五月になったので
思い出すことのひとつにこの事がある。

五労の一は多想心労。
とりこし苦労が多すぎること。
これは心臓を傷(いた)める。

二は多怒肝労。
怒りが度重なると肝を痛める。

三は多思脾(ひ)労。
考えごとが多いと脾が疲れる。
脾蔵は血液の浄化や調節を司どる大切な器官であるが、
割合に人々はこれを知らない。

四は多悲肺労。
悲しみが多いと肺を傷める。

五は多憂腎労。
憂が多いと腎が疲れる。


悲と憂とどう違うかと思う人々もあろう。
これは相即(そうそく ※つきものの意)ではあるが、
どちらかというと、
悲の方は過去につながり、
憂の方は未来にわたるということができる。

そこで、特に春には脾を養い、
夏には肺を養い、
秋には肝を養い、
冬には心臓を養い、
四季を通じて最も腎を養う。
つまり腎即(すなわ)ち身体の浄化装置を過労させぬこと、
腎労・腎虚にせぬことである。

こういう心得が有ると無いとで
人間一生どれほど違ってくるか測り知れぬものがある。




安岡 正篤

素読のすすめ

江戸時代の時代劇を見ると、
寺子屋で「子曰はく、・・・・」と
素読をする場面が多く見られます。

日本では、古くより、昭和の近代まで、一般の教育で
この素読が採用されてきました。

「小さい子供に、そんなに知識を詰め込みすぎると、自由な発想
ができなくなる。」との言う人もありますが、
日本の偉人をみてみると、多くの人がこの素読しています。

たとえば、私の大好きな、萩に育った
吉田松陰もその一人です。玉木文之進先生に厳しく
素読で指導されて育ちました。

ノーベル賞を受賞した湯川秀樹博士も、小さい頃、
四書五経を素読して育ちました。


素読には、集中力と色々な事を吸収する力が
育つようです。このことは、デジタル速音調の
教材の中でも、詳しく解説されていました。

最近、<読本「仮名大学」 『大学』を素読する>
という本を入手し、私も、時々素読しています。

【参学道】

本当の学問や修養というものは
これは禅でも儒でも同様で、
人間と人間、
精神と精神、
人格と人格が火花を散らす様にやる。
これを参学道、参ずると言う。

分かったのか、
分からぬのか、
ノートをとって、
又それを受け売りする、
などというような学問や学校勉強は、
これは雑学・俗学というもので、
所謂(いわゆる)学問・求道の中には入らない。



安岡 正篤

執念ある者は可能性から発想する

松下幸之助さんの言葉らしいのですが、
 
 
 「執念ある者は可能性から発想する。
  執念のない者は困難から発想する」
  
  
 と。役人なんて、困難からしか発想しないでしょう。
 あれは執念がないんですよ。
 明確な目標がないからそういう発想になるんです。
 
 あるいは、管理職からなんとなく社長になったような人。
 執念ないですね。執念がないから困難から発想するんですよ。
 
 できるかどうか、ハラハラするところに
 やっぱりやりがいがあるわけで、
 困難から発想していたら、とても前に進んでいけないです。


現代人には二つのタイプがある。

        宮脇昭(横浜国立大学名誉教授)
        
        
       『致知』2004年11月号
         特集「喜怒哀楽の人間学」より


────────────────────────────────────


 師を選ぶとは非常に大切なことでしてね。
 二年半の留学生活の中で、
 一度だけチュクセン教授(ドイツ国立植生図研究所長)に
 訴えたことがあるんです。
 
 来る日も来る日も現場へ行って植物を調べ、
 土を掘り続ける毎日だったので、
 せっかくドイツに来たんだから
 いろいろな本も読みたいし、他の教授の話も聞いてみたいと。
 
 そうしたら老大家は、


 「見よ、この大地を!
  三十九億年の地球の生命の歴史と
  巨大な太陽のエネルギーの下での生命のドラマが
  目の前にある。
  
  まず現場に出て、目で見て、匂いを嗅いで、
  舐めて触って調べろ! 

  
  現代人には二つのタイプがある。

  
  見えるものしか見ない者と
  見えないものを見ようと努力するタイプだ。
  
  ミヤワキ、君は後者だ。
  現場が発しているかすかな情報から
  見えない全体を読み取りなさい」


 と言いました。
 
 つまり現場がすべて、見かけ上の事象に惑わされず、
 本物を見ろということです。
 
 チュクセン教授には日本で三十年間かけても
 学べないことを学ばせてもらいました。


教育とは単に手取り足取り
教えることではないんですね

奇跡=才能×努力×感謝力

震災に遭うまでは、どんな状況でも
 不撓不屈で頑張ることのできる人が勇者だと思っていました。
 でも、真の勇者は頑張れることへ感謝できる人なんですね。
 
 才能と努力だけで栄光を掴みにいくと、
 うぬぼれるから怖いのです。
 
 最後の一打で手が届かなかったりする。
 だからプロテストを見ていても、
 通る、通らないというのは大体分かります。


 どこで見極めるかといえば、まず、
 感謝力が強い人はきちんと挨拶をします。
 
 こっちが一礼して
 「おはようございます」と挨拶しているのに、
 首だけでペコッとかいうのは挨拶ちゃうで(笑)。

 それから歩き方。大地を踏みしめて、
 胸を張ってスーッと歩ける人は通ります。
 どんなにミスをしても、
 頑張れることへ感謝できる人はオドオドしない。

  
 人生は最後の最後まで分からない、
というのが私の持論です。

 私たちは震災であまりにも多くのものを失いました。
 しかし、それによって大切なのは物ではなく、
 お金でもなく、地位や名声でもない。
 
 人の愛であり、優しさであり、人を思いやる心であり、
 感謝であり、積極的な心だと分かった。
 そのおかげで、いま、私は夢のような人生を歩んでいる。
 人生、何がピンチで何がチャンスか、
 その時点では判断できないと思うんですよ。

 でも、どんな時でも正直に、悔いなく、
 感謝の心を持って生きると、
 ものすごいパワーが生まれて奇跡を起こしてくれる。
 それは誰が起こしてくれるのか? 
 周りの人です。自分の力では奇跡は起きません。
奇跡は周囲の人が起こしてくれるものなのです。
 
 
 感謝は人の心を

大きく、

美しく、 そして

強くします。

 いくらゴルフが上手でもプロにはなれません。
 強い人がプロになるんです。
 そして強い人はいつも周りの人に感謝している。
 だからますます強くなる。




古市忠夫(プロゴルファー)

最善観

憂きことの多い毎日ですが、

私にとって励まされる一言があります。

「最善観」です。

この世のこと、一切は、

神様が必要だからくださったもの。

そう感じ、そう生きるのです。

我が身、我が人生に降りかかる、

一切のことは、大宇宙の秩序がそのように

運行するから起きている結果なのです。

宇宙を神に置き換えますと、

我が身、我が人生に降りかかる一切ことは、

「神の思し召し」である。

憂きことが降りかかれば、

まだ修行が足りないから神様が学びなさいと、

言ってくださっている。

楽しみがわき出たら、がんばったから、

幸せをくださったと感じる。

神様を宇宙を感じ取って生きると言うことです。

之には、根本的に感謝があるのです。

人生を好転するし、良きことの

循環に歯車を回すには、

憂きことにも、災難にも、

また、幸運にも感謝することです。

それが出来る根本的な見方が「最善観」です。



森 信三

一隅を照らすもので、私はありたい。

一隅を照らすもので、私はありたい。

私のうけもつ一隅が、どんなちいさい、

みじめな、はかないものであっても、

わるびれず、ひるまず、

いつもほのかに照らして行きたい。



田中良雄  詩

時・場・礼

時を守り

場を清め

礼を正す



森 信三


【時を守り】

とは時間を守ること
この意味は、相手を尊重すること
それにより自分が信用を積み重ねること

実践目標つまり、今日することは
すべての予定の開始5分前に姿勢を正し、
心を静め、開始を待つこと

【場を清め】

とは掃除をすること
掃除をすることの意味は、
5Kで表され

気づく人になれる
心を磨く
謙虚になれる
感動の心をはぐくむ
感謝の心がめばえる

実践目標つまり、今日することは
一つでも足元のゴミを拾うこと
一つ拾えば一つだけきれいになる
できれば15分間、人のために尽くす

【礼を正す】とは、

挨拶をすること、返事をすること
挨拶の意味は、心を開いて相手に迫るということ
挨拶をすれば人間関係がよくなり
挨拶をしなければ人間関係が悪くなる

実践目標つまり、今日することは
朝の挨拶人より先に
誰に会っても、相手が聞こえる大きな声で、
相手が気持ちよくなる挨拶をする

「おはようございます!」

そして、呼ばれたら「ハイ!」
返事をすれば人間関係がよくなり
返事をしなければ人間関係が悪くなる

実践目標つまり、今日することは
呼ばれたら、相手が聞こえる大きな声で、
相手が気持ちよくなる返事をする
打てば響くような「ハイ!」

「時を守り、場を清め、礼を正す」
日本中の人がこれをしたら日本は必ずよくなります

戦略とは

戦略の略というのは、

「略する」ということ。

ありとあらゆる情報を集めたら、

それを分析し、

無駄なもの、

雑音(ノイズ)、

あるいは

枝葉を徹底的に除去し、

一番太い幹になる部分、

しかもそのなかの

“急所”を見つけるのが、

戦略ということである



孫正義

目配り・気配り・心配り

1.目配り:

注意をゆきとどかせて見て聞いて、
それらの1つひとつから本質を見極めること


2.気配り:

目配りで感じとった本質から、
何をしてあげればいいかを配慮すること


3.心配り:

気配りで感じた配慮を、
実際に行動であらわすこと

やりきること、やり抜くこと

1、遣りたいことをとにかく口に出すこと
  
2、チャンスが来たら絶対にそれを逃さないこと
  
3、チャンスを掴まえたら何が何でもやり切ること

使用・任用・信用

人を使うというのは単なる「使用」で、
  任せて用いるのは「任用」、
  信じて任せるのは「信用」。

この、信用できる人を自分のそばにどれだけ置けるか。
『論語』にもあるように
「徳は孤ならず、必ず隣あり」ですよ。

言い換えれば、リーダーが人間的魅力を持つことが
事業の成否において
非常に大きなウエイトを占めると思うんです。




北尾吉孝(SBIホールディングスCEO)

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プロフィール

矢野 一成

Author:矢野 一成
愛媛県新居浜市 アール塾塾長

備忘録、すなわち
忘れたときのために備えて、
書きとめておく、
個人的な雑記帳です。

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