日本一アツイ教育を実践する男が語るBLOG

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子どもは住んでいる環境から学ぶ


 ・もし子どもが批判と共に住むならば
 その子は非難することを学ぶだろう
 ・もし子どもが敵意と共に住むならば
 その子はあらがうことを学ぶだろう
 ・もし子どもが嘲笑と共に住むならば
 その子は引っ込み思案であることを学ぶだろう
 ・もし子どもが不真面目と共に住むならば
 その子は自責の念に苛まれることを学ぶだろう
 ・もし子どもが激励と共に住むならば
 その子は自信を持つことを学ぶだろう
 ・もし子どもが賞賛と共に住むならば
 その子は感謝することを学ぶだろう
 ・もし子どもが公正と共に住むならば
 その子は正義を学ぶだろう
 ・もし子どもが安全と共に住むならば
 その子は信じることを学ぶだろう
 ・もし子どもが容認と共に住むならば
 その子は自分を愛することを学ぶだろう
 ・もし子どもが受容と共に住むならば
 その子は愛を見出すことを学ぶだろう

 (ドロジー・ノルテ)
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迂儒

いくら本を読んで、知識を豊富に持っておっても
一つも実際の役に立たんという学者がある。
こういうのを迂儒(うじゅ)という。

いろいろ知ってはいるが、意外に役に立たん、
生きた解決にピタリとしないというのを迂と言う。

だから儒者でも、物知りではあるけれども
活きた学問にならんというのを迂儒という。

学説の「迂説」という言葉はこれからくるわけです。

しからば、見識をどう養うか。

それは、やはり人生の体験を積んで、
人生の中にある深い理法、
道というものがわからないと
見識になってこない。



『論語』に

子曰はく、学んで思はざれば則ち罔く、
思うて学ばざれば則ち殆し。



というのがありますね


<口語訳>



知識や情報をたくさん得ても
思考しなければ、
どうして活かせばいいのかわからない。



逆に思孝するばかりで、
知識や情報がなければ
空想的になってしまう。



あいさつ

  「いらっしゃいませ」


 「少々お待ち下さいませ」


 「お待たせいたしました」


 「ありがとうございました」


 「またおこし下さいませ」



人は笑うかもしれないが、
笑う人間にはわかっていないんです。


何事をやるにも当たり前のこと、
基本を本気でやるべきなんです。..

聖賢の学

知識の学問と知恵の学問では非常に違うのであって、
知識の学問は、われわれの理解力・記憶力・判断力・推理力など、
つまり悟性(ごせい)の働きによって誰にもひと通りできるものだ。
子供でもできる、大人でもできる、善人もできる、悪人もできる。

程度の差こそあれ、誰でもできる。
その意味では、機械的な能力である。

しかしそういうものではなく、
もっと経験を積み、思索反省を重ねて、
われわれの性命や、人間としての体験の中からにじみ出てくる
もっと直観的な人格的な学問を知恵の学問と言う。

だから知識の学問より知恵の学問になるほど、
生活的・精神的・人格的になってくるのである。

それを深めると、普通で容易に得られない徳に根差した、
徳の表われである徳恵(「とくけい」あるいは「とくえ」と読む)
という学問になる。

これが聖賢の学である。



安岡 正篤

「自分の感受性くらい」

「自分の感受性くらい」
                       (詩 茨城のり子)     

ぱさぱさに乾いてゆく心を     
ひとのせいにはするな     
みずから水やりを怠っておいて     
気難しくなってきたのを     
友人のせいにはするな     
しなやかさを失ったのはどちらなのか

苛立つのを
近親のせいにはするな     
何もかも下手だったのはわたくし

初心消えかかるのを     
暮らしのせいにするな     
そもそもがひよわな志にすぎなかった

駄目なことの一切を     
時代のせいにはするな     
わずかに光る尊厳の放棄

自分の感受性ぐらい     
自分で守れ     
ばかものよ  
               

悟り

悟りとは
自分の花を
咲かせることだ
どんな小さい
花でもいい
誰のものでもない
独自の花を
咲かせることだ

坂村 真民

プロとアマの違い


第一は、プロは

「自分で高い目標を立てられる人」
だということである。

自分なりにほどほどにやれればいい、
この程度でいいだろうと、
目標をできるだけ低く設定しようとするのが
アマである。

プロは違う。
プロは自分で高い目標を立て、
その目標に責任を持って挑戦していこうとする
意欲を持っている。

第二は

「約束を守る」ということだ。

約束を守るというのは、成果を出すということである。
自分に与えられた報酬にふさわしい
成果をきっちりと出せる人、
それがプロである。
成果を出せなくてもなんのつうよう痛痒も感じず、
やれなかった弁解を繰り返してやり過ごそうとする者がいる。
アマの典型である。


第三は

「準備をする」。

プロは「絶対に成功する」という責任を自分に課している。
絶対に成功するためには徹底して準備をする。
準備に準備を重ねる。
自分を鍛えに鍛える。
そうして勝負の場に挑むから、
プロは成功するのである。

アマは素晴らしい準備をほとんどせず、
まあ、うまくいけば勝てるだろうと、
安易な気持ちで勝負に挑む。
この差が勝敗の差となって表れてくるのである。
表現を変えれば、プロは寝てもさめても考えている人である。
起きている時間だけではない、
寝ても夢の中にまで出てくる。
それがプロである。
少しは考えるが、
すぐに他のことに気をとられて忘れてしまうのが
アマのつうへい通弊である。

第四は、

これこそプロとアマを分ける決定要因である。
プロになるためには欠かせない絶対必要条件だといえる。
それは…

プロは

「進んで代償を支払おうという気持ちを持っている」
ということだ。

プロであるためには高い能力が不可欠である。
その高い能力を獲得するためには、
時間とお金と労力を惜しまない。
犠牲をいとわない。
代償を悔いない。
それがプロである。
犠牲をけちり代償を渋り、
自己投資を怠る人は
絶対にプロになれないことは
自明の理であろう。

最後に一流といわれるプロに共通した条件をあげる。
それは
「神は努力する者に必ず報いる、と心から信じている」
ということである。


藤尾 秀昭

試練は必ずどこかで峠を超えるものである

●工藤恭孝(ジュンク堂書店会長・創業者)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

   大変なことや試練というものは、
   重なって起こってくるものなんですよね。
   とにかく悪い時には悪いことが重なって起こる。
   
   言葉を換えると、試練は次から次から
   どんどんやってくるというのが、
   これまでの僕の経験ですね。

   でも、その試練も必ずどこかで
   峠を越える時がくる。
   だからその峠を越えるまでは、
   負けずにただ力を尽くしていくしかない。

蛍の光

ほたるのひかり、まどのゆき、
ふみよむつきひ、かさねつゝ、
いつしかとしも、すぎのとを、
あけてぞけさは、わかれゆく。

とまるもゆくも、かぎりとて、
かたみにおもふ、ちよろづの、
こゝろのはしを、ひとことに、
さきくとばかり、うとうなり。

つくしのきわみ、みちのおく、
うみやまとほく、へだつとも、
そのまごころは、へだてなく、
ひとつにつくせ、くにのため。

ちしまのおくも、おきなはも、
やしまのうちの、まもりなり。
いたらんくにに、いさをしく、
つとめよわがせ、つゝがなく。



現在は『蛍の光』は2番までしか歌われないことがほとんどだが、
本来は4番まである。

3番と4番は、遠く離れ離れになっても、
それがたとえ辺境の地であろうとも、
国のために心をひとつにして元気にそれぞれの役割を果たそう、
というような内容であった。
戦後はこの国家主義的(軍国主義、滅私奉公)とも取れる歌詞が敬遠され、
また日本固有の領土である千島や沖縄が他国の占領下に置かれたという事情もあり、
教育現場への指導などによって歌われなくなっていったものと思われる。

1881年(明治14年)に尋常小学校の唱歌として小学唱歌集初編(小學唱歌集初編)に載せられた。

日清・日露戦争のはるか以前に作詞され、いささかの軍国的要素もないのに
3番4番は戦後消されたままになっている

国会議員たるものは道路財源等でもみ合う力があるならば
この3番4番の復元に勇気を持ってもらいたいものである


国防の基本は愛国心にある

公を忘れて個のみに走る

民族に明日はない

プロとアマの違い

『徒然草』では「道の人(プロフェッショナル)」と
「非家の人(アマチュア)」との違いを
厳しく選び分けていましてね。

道の人は、一つの物事を続ける途上にも、
まだダメだ、まだダメだと自分の至らぬことを
いつも反省している。

非家の人は上手になるとすぐ天狗になって気を緩めてしまう。
両者の差はここで生まれるのだと。


            清川妙(作家)

「至誠惻怛」(しせいそくだつ)

まごころ(至誠)と、いたみ悲しむ心(惻怛)があれば、

やさしく(仁)なれる。目上にはまことを尽くし、

目下にはいつくしみをもって接するのが寛容で、

こころの持ち方をこうすれば物事をうまく運ぶとの諭し。

まごごろ(至誠)と他人の痛みや哀しみを慮る心(惻怛)を持てば、

きっと物事をうまく運ぶことができる


という意味。


河井継之助が山田方谷に師事した際、

方谷から贈られた王陽明の一節である。

孔子、孟子の教えを会得してなお足らざるところが、

この「至誠惻怛」(しせいそくだつ)の教えと解するが良い。..

文武両道

「子(し)曰(い)わく、質、文に勝てば則(すなわ)ち野(や)。

文、質に勝てば則ち史(し)。

文質彬彬(ひんぴん)として、然(しか)る後、君子なり」



スポーツばかりして勉強を疎かにしていては

荒っぽい人間になってしまう。

また勉強ばかりして自分の心や体を鍛練することをしなくては、

言うことは立派でも中身のない人間になってしまう。

だから、勉強とスポーツの調和の取れた

生活をしなくてはいけない。

文武両道だね。

『中庸』のこころですね

野鴨の哲学

ある善良な老人が湖で野鴨にえさを与えていました。
野鴨は、初めのころは季節ごとに他のえさ場へと旅立っていたのですが、
その湖が居心地もよくしかもえさに困らなかったので、
しばらくするとすっかり居ついてしまいました。

ある日、善良な老人が亡くなりました。
野鴨は次のえさ場を探そうとしますが、
湖に居ついていた間に飛ぶことや駆けることを忘れてしまい、
もはや他のえさ場を探すことができません。

さらに悪いことに、
近くの山から大量の雪解け水が湖に流れ込んできました。
他の鳥がすばやく飛び立つ中、
太った野鴨は飛ぶことや駆けることができずに死んでしまいます。

野鴨は、本来数千キロを飛ぶことのできるたくましい鳥です。
そのたくましい鳥でも、環境に安住することにより本来の生命力を失い、
ちょっとした環境の変化にも対応できなくなってしまいます。



さて皆さんは、太った野鴨のように立ちすくんでいませんか。
戦後66年間で、国家が国民を守るしくみができ、
会社が家族を守るしくみができ、
経済発展によって世の中が便利になりました。
しかし、私たちがえさ場のように思っている年金や、
国が元本を保証している郵便貯金や簡易保険も、
今後、どのような形で残っているかは分かりません。

私たち日本人は、もっとたくましく、意志を持った動物のはずです。
今の生活にあぐらをかかずに、これからの自分の生き方や、
お金の使い方やふやし方を考えていますか。
先入観を取り払って人生のことやお金のことを考えてみると、
新しい未来が開けてきそうですね。
日本人の皆さんならきっと大丈夫だと、
私たちは信じています。

あめふりくまのこ

鶴見正夫 作詞
湯山昭 作曲

おやまに あめが ふりました
あとから あとから ふってきて
ちょろちょろ おがわが できました

いたずら くまのこ かけてきて
そうっと のぞいて みてました
さかなが いるかと みてました

なんにも いないと くまのこは
おみずを ひとくち のみました
おててで すくって のみました

それでも どこかに いるようで
もいちど のぞいて みてました
さかなを まちまち みてました

なかなか やまない あめでした
かさでも かぶって いましょうと
あたまに はっぱを のせました


【修養が足りない現代日本人】

現代日本人は人物というものができていない。
修養が足りない。
人を見れば悪口を言って、
自分の事を棚にあげておいて、
そうして一向努力はせぬ。
嫉視誹謗し、
そうして他に向かって大言壮語ばかりする。
行儀作法もなっていないという傾きがある。

これを根本的に是正しなければ
本当の意味において
日本精神を発揚することはできない。
外に発展しようと思えば思う程、
やはり内に深めなければならない。


安岡 正篤

風車 風が吹くまで 昼寝かな 2

どんな人にも不遇の時期というのは、
必ず一度や二度はあります。
降格、左遷、リストラ、非難、仲間はずれ……。
そんなとき、たいていの人は、将来を心配して焦ったり、
悩み苦しんだり、ひどく落ち込んで腐ったりするものです。
時には、自暴自棄になったり、無謀な行動に出たりして、
人生の泥沼にはまることもあります。

■しかし、いくら焦っても、行動で事態を変えようとしても、
どうにもならない場合だってあるのです。
たとえば、台風が来たときは、家の中でじっとしていて、
台風が過ぎ去るのひたすら待つでしょう?
それと同じです。
つまり、困難をやりすごすのです。

■不遇な時期に遭遇したら、まずは気分を鎮めて、
ゆったりと構えることが大切です。
心の平静と余裕を失うと、
さらに事態の悪化を招く場合もあるからです。

■そして、静かに準備を万全にして待つ。
「果報は寝て待て」という言葉があるように、
良い知らせがくるまで昼寝でもして、待っていればいいのです。
昼寝がもったいないなら、
大好きな趣味に没頭するのもいいでしょう。
これを機会に、本を読んだり、音楽を聴いたり、
芸術を鑑賞したりして、
教養を高めるのもいいでしょう。

■とにかく、じっと待っていれば、
いずれ自分に味方する風、追い風が吹いてきます。
それまで、エネルギーをたっぷり蓄えておきましょう。

一国のリーダーの姿勢

中国古典『大学』に次の一節がありますね。

 国家に長として財用を務むる者は、
 必ず小人に自(よ)る。
 彼之(これ)を善くすと為して、
 小人をして国家を為(おさ)め使(し)むれば、
 災害竝(なら)び至る。善者有りと雖(いえど)も、
 亦(また)之を如何(いかん)ともする無し。



 (国の責任者として財用を司る者は、
  必ず才能の優れた、いわゆるやり手によって事務を処理する。
  しかし、彼がよくできるからといって、
  これに高い地位を与えて国政に当たらせると、
  天災人害が共にやってくる。
  たとえ立派な人物が下位にあっても、どうすることもできない)

傍観者であるな、主体者であれ

その仕事の“意義”を見出し、
     そこに自分の“意思”を働かせる。

     要は、与えられた仕事に
     主体性を持って取り組めということである。


           北尾吉孝(SBIホールディングスCEO)



いま自分に与えられているこの仕事は、
どういう意味があるのか、会社にどう役立つのかを
常に考えて仕事に打ち込んでいく。

たとえどんな嫌な仕事であろうと
目の前の仕事に価値を見出し、主体的に取り組むことが
人生を繁栄発展させる要ではないでしょうか。

人間力を高める読書法

① 目的意識をもって読む
「自分自身の成長のために読む」
「自分の人間性を高めるために読む」
という目的意識をもって読み始めることです。

そう意識することで、自分自身の成長につながる
情報をキャッチするアンテナが立ちます。
このアンテナが立つかどうかで、
成果に雲泥の差が出るのです。


② 問いを持って読む
「悔いのない人生を生きるにはどうすればいいか? 」
「人間性を高めるとはどういうことか? 」
「自分に使命( 役割)があるとしたら何か? 」など
の問いを持って読むことも大切です。
明確な問いがあると、人間はその問いの答えを探そうとして、
自分なりに考えます。

ただし、その問いは自分で考えてください。
学校教育になじんだ私たちは、
「問いは与えられるもの」と考えがちですが、
自分の内から湧いてくる問いをもってこそ、
本物の学びになるのです。

また、その問いは本を読むときに限らず、
常日頃から意識しておくことが大切です。
問いをもって生活するのです。
生活を通じて自問自答をくり返しておくと、
その問いに対する自分なりの考えが深まります。
そうして考えを深めておくと、
本を読んで著者の言葉に触れたときに、
自分の考えと著者の考えが融合して、
深い気づきに至ることがあるのです。


③ 著者と対話するという気構えで読む
本を読むときに、たんに情報を入手するという意識ではなく、
著者という一人の人間と対話するという意識で読みます。
著者が自分と一対一で向き合ってくれていて、
自分に話しかけてくれていると思いながら読むのです。

新しい本を読み始めるときに、まず本に対して一礼してから
1 ページ目を開くようにしています。
この一種の儀式によって、「今から著者との対話を始めるぞ」
という心境になり、ワクワクするとともに、
心地よい緊張感に満たされます。

続いて、具体的な読み方についてお話します。
まず、急がずにじっくり読むことが大切です。
情報や知識を得るための読書であれば、
なるべく短時間で効率のよい読み方をするのがいいと思いますが、
人間性を高めるための読書では、
効率をあまり考えずに、
「自分の感性でじっくり感じ取る」ということを重視します。
「この本にはこのようなことが書いてあった」
という知的な理解よりも、
「この本を読んで自分はどう感じたか」
という感性的な体験( 感動) が
大切なのです。
人間は感動によって変わるからです。
また、すべてを鵜呑うの
みにしながら読むのではなく、引っかかるところ
や疑問を感じるところがあれば、
自分なりに考えてみることが大切です。


『論語』にも、次の言葉があります。
「学びて思わざれば、則すなわち罔し

( 人から学ぶだけで、自分で考えてみる
ことをしなければ、本当にわかったことにならない)」

また、反論したいところがあれば実際に反論してみましょう。
反論した場合は、
「この著者ならば、自分の反論に対してどう答えるだろうか? 」
と考えてみます。
その過程で、感じたことや気づいたことがあれば、
本の余白に書き出すのもいいですね。
このように立ち止まりながら読むと、
著者の考えが深く理解できるとともに、
自分の考えも深まります。
このような読書は、「著者と対話する時間」でありながら、
同時に「自分と対話する時間」にもなるのです。
すぐれた人物( 著者) と一対一で対話しながら、
同時に、静かに自分自身と向き合うことができる。
これが読書の醍醐味です。

※ この文書は、『心眼力 ~ 柔らかく燃えて生きる3 0 の智恵~)』
( 野口嘉則 著、サンマーク出版)の中から、
その一節を抜粋したものです。

四摂事(ししょうじ)」という四つの実践法、

布施・愛語・利行・同事。

①「布施」は、ものでも心でも、惜しみなく他者に分け与えること。
一切の見返りを求めずに、自分ができることを自然に行なうことである。

②「愛語」は、やさしい愛のあることばをかけること。

③「利行」は、自分の身と口と心を使った実際的なエネルギーを
発信するアクションのこと。

④「同事」というのは、相手と同じ目線に立って、
コラボレーション「協働」すること、パートナーシップのことである。

 「私はこうして時間を使う」


(一つのことを長くやり続ける秘訣とは)
結局、意志力です。
意志は使えば使うほど強くなります。

でね、続け難くなったらね、
つらいから二、三日休もうかと、あらかじめ、
ちゃんと認めて休んだらいいですね。

毎日五時に起きるのが三か月も続いた。
つらい。ちょっとこの辺で休みたいなと思ったら
意識的にここから三日間は朝寝するぞ、
と自分に宣言する。
そういうのをもうけてもいいと思う。

しかし、ここで大事なのは三日後には必ず、
また始めることです。

一回やめたとたんに、
二度と戻らない人がいる。
これではだめです。何度も戻らなくては。

そうすると、そのうち、それがだんだん、
自分のライフスタイルになっていく。

       * *

それから、ひとつのことをやり続けるのに、
小さな時間を生かすことも考えよ、
といいたいですね。

ぼく自身の話をすると、四十代になって、
ものすごく肩がこるようになった。

それに心臓が痛くなったりね。
で、これはいかんと思って、毎朝、
五分から十分ほどヨガもどきの体操を始めたら、
そのうち、肩凝りはウソのように消えたのみならず、
ここ数年、風邪一つひかない。


時間の話をしたついでにいえば、
ぼくは時間というのを
大きい時間と小さい時間に分けています。

小さい時間でできることは、
いまの体操とか、単語を勉強するとか、
週刊誌を読むとかです。

こういうのは長い時間があると、逆にできない。


三時間単語を読む。
三時間週刊誌を読むなんてのはバカな話ですよ。
小さい五分とか十分をそういうものに
当てればいいんです。

逆にものを書くとか、
まとまったことをやる場合には、
やはり、エンドレスにしておくことです。

例えば夜の十時から書き始めるでしょう。

それで、まぁ、朝の五時までやって八時間、
誰にも邪魔されない時間があるわけです。

疲れて途中でコーヒー飲んでもいいし、
参考書をめくっているうちに、
それを多少、読みふけったりする時間がある。
そういうエンドレスの時間を持つと、
意外に長い原稿もまとまる。

これをやらないで小刻みの時間で
原稿を書こうというのは、
書ける人もいるだろうが、ぼくはとらないです。


例えば、きょうみたいに出かけてくるときにも、
一応時間の配分を考える。

三十分くらい座れる電車の中では
原書の小説を読むわけです。
小説は机に向かって読むのは惜しい。

しかし、おもしろいし、勉強になるし、
読んで栄養になるから、
これを読むのはそういう時間に当てる。
それから、これは古英語の詩集です。

これは立っているときとか、
二十分も座れない短時間のときにね、
これを五行でも六行でも読む。


まあ、カバンの中に、
いろいろな仕掛けを持っているわけです。

そういう五分、十分の蓄積がね、
けっこう大きな実りをもたらすのです。



渡部 昇一

【心友と疎交】

 「世には未に見ざるの心友有り。

  日に見るの疎交有り。

  物の睽合(けいごう)は、感応の厚薄に帰す。」





 【訳】 世の中には、一度も会ったことがないのに

     心の通い合う友人がいる一方で、
    
     毎日会っていても表面だけの

交際をしているにすぎない人もいる。

     物の離合というのは、

     心と心の感応が厚いか薄いかによって

決まるものである。



佐藤 一斎

『自分を高からしめる教育がなくなった』


健全な社会をつくり、
美しい自己を確立しようとするとき、
もっとも必要とされるものはなにか。

それは「自分を磨く」という人間学であり、
それを裏付ける伝統的精神である。

かつてはこれを「修養」「修身」といって、
人が人として保たなければならない
「道徳」とか「躾」とかを、
家庭や学校できびしく教えていた。

だが戦後、
日本を改造したGHQは
日本を軍国主義へ駆り立てた元凶を
この「修身教育」と考え、
民主主義教育の美名のもとに
排除してしまったのである。

日本人のほうも、
豊かなアメリカに負けたことから、
「精神」よりも「物質」だということで、
修身教育で培われた倫理道徳観を唾棄し、
物質主義こそ幸福への道と、
国をあげて邁進することとなった。
それが今日の状況である。

そして、その反動として、
戦後日本人の道徳アレルギーが始まり、
「修身・修養」を
カビのはえた古臭いものと否定し、
人間が本来、行動の規範として
守らなければならない
「道徳」すら捨ててしまったのだ。

もともと”人の倫”を教えた修養や修身が
間違っていたわけではない。
それを利用した軍部が誤っていたのであり、
どのような時代でも、いかなる国家でも、
動物としての「ヒト」を「人間」たらしめるには、
自己研鑽として修養は不可欠なのである。



岬 龍一郎 「新渡戸稲造の人間道」

身(しん)口(く)意(い)の三業(さんごう)

 
 身(しん)口(く)意(い)の三業(さんごう)とは、

身業・口業・意業の三つをいい、

人間の行為(こうい)を

身・口・意志の三種に分類したものです。
 
業とは行為・造作の義で、

善悪にわたる行為そのものだけでなく、

その行為の余力としての習慣力が含(ふく)まれます。

人の行為経験は、いかなるものでも

そのまま消(しょう)滅(めつ)することなく

必ずその余力を残し、

それは知能・性格などの素質として

保存・蓄積(ちくせき)されるのです

【真の教養】

およそ真の教養とは、人類の有する偉大な著作
に親しむことによって得るものです。

そこで昔から優れた定評のある良い書物を
少しずつ読むことであります。

人間としての教養の書、人としての哲学の書、
修養の書というものを、
注意して毎日たとえ三枚でも五枚でも、
そういう書物を必ず読むようにする。

いわゆる座右の書を持つということであります。


安岡 正篤

準備がすべて

子貢仁を為すを問ふ。
子曰く、「工其の事を善くせんと欲せば、
必ず其の器を利くす。
是の邦に居るや、其の大夫の賢者に事へ、
其の士の仁者を友とす。

衛靈公第十五



<口語訳>



子貢が仁の実践方法について尋ねた。
孔子は言われた。
「職人が良い仕事をしょうとすると、
必ずまず道具を磨きます。
そのように、自分の国においては、
重臣の中から、賢者を選んで
そこに仕えるべきです。
また、同僚とは人格者と付き合うこと
が大切です。



<左中の学び>



大工さんや料理人を見ていると、
自分の道具をいつも綺麗にし、
最高の状態にして仕事をはじめます。
普段の立派な手入れがあってこそ
素晴らしい仕事もできるというのもです。



マリナーズのイチロー選手は、
子供の頃から、練習や試合が終わったら
一人になってもグローブやスパイクを
磨いていたそうです。



超一流選手になるには、
まず、道具に感謝し「ありがとう」の
気持ちを込めて手入れしているのです。



その気持ちが、素晴らしい結果として
現れてきます。


【傳家寳(でんかほう)】

一、我が幸福は祖先の遺恵、子孫の禍福(かふく)は
  我が平生(へいぜい)の所行にあること、
  已(すで)に現代の諸学にも明らかなり。

二、平生・己(おのれ)を省(かえり)み、
  過(あやま)ちを改め、事理を正し、
  恩義を厚くすべし。
  百薬(ひゃくやく)も一心の安きに如(し)かず。

三、良からぬ習慣に狎(なれ)るべからず。
  人生は習慣の織物と心得べし。

四、成功は常に苦心の日に在り。
  敗事は多く得意の時に因(よ)ることを
  覚(さと)るべし。

五、事の前に在りては怠惰、
  事に当っては疎忽(そこつ)、
  事の後に於(おい)ては安逸(あんいつ)、
  是(こ)れ百事成らざる所以(ゆえん)なり。
  天才も要するに勤勉のみ。

六、用意周到なれば機に臨んで惑(まど)うことなし。
  信心積善(せきぜん)すれば変に遭うて恐るることなし。

七、不振の精神・頽廃(たいはい)せる生活の上には、
  何ものをも建設する能(あた)わず。
  永久の計は一念の微にあり。


安岡 正篤

理想的な行動条件

(ひろ)くこれを学び、

審(つまび)らかにこれを問い、

慎んでこれを思い、

明らかにこれを弁じ、

篤くこれを行う。


(学ばなければ物の道理を知ることはできない)

故に必ず博(ひろく)学んで、

分からないことはつまびらかにこれを問うて解明し、

慎んでこれを思い自得する。

さらに、自得したものの公私、是非などを明らかに弁別し、

そして善を択ぶ以上は、

日常に篤くこれを実行しなければならない。


中庸20章

叡智と英知

「叡智」とはどんな意味を持っているのか、

「英知」とどこが違うのか、

疑問に思って調べてみました。

『広辞苑』によれば「叡智」とは、

「深遠な道理をさとりうるすぐれた才知」とあります。

一方、「英知」の方には「すぐれた知恵」と記されています。

なるほど。おぼろげながら

「叡智」と「英知」の違いが分かるような気がします。

試練を超える

我が国、日本は空襲により約24万人、

原爆投下で約21万人もの尊い命が失われ、

その後7年にもわたりアメリカに占領されていました。

しかし我々の父祖は、そこから見事に立ち上がり、

復興を果たしました。

その要因の1つを、吉田茂の言葉をお借りしますと、

「日本には何の資源もない。その国がここまで来れたのはなぜか。

ただ1つの資源があったからだ。

日本人の勤勉性という資源だ」

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プロフィール

矢野 一成

Author:矢野 一成
愛媛県新居浜市 アール塾塾長

備忘録、すなわち
忘れたときのために備えて、
書きとめておく、
個人的な雑記帳です。

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