日本一アツイ教育を実践する男が語るBLOG

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ストレスに負けない三つの感覚

 同じような環境で、同じような仕事内容で働いていても、
 病気になる人とならない人がいます。それはなぜでしょうか。

 うつ病に限らず、すべての疾病は
 環境要因と個体要因のバランスによります。
 
 例えばどんな屈強な男性でも、
 何日も寝ないで重労働に従事すれば
 体を壊してもおかしくはありません。
 
 それが環境要因です。
 
 
 一方で本人の資質に起因する病もあり、
 特に精神的な病の場合、その人のストレスの
 感じ方によるところも大きいでしょう。


 その昔、医療社会学者の
 アーロン・アントノフスキーが
 ユダヤの強制収容所から生還した人たちの
 健康調査を継続的に行ったところ、
 一部の人たちはとても長生きをしたことが分かりました。
 
 そしてその人たちは、共通して
 次の三つの特性を持っていたと報告しています。



一、有意味感
~~~~~~~~~~~~~~~~

 つらいこと、面白みを感じられないことに対しても、
 意味を見いだせる感覚。
 明日ガス室に送られるかもしれない中でも、
 自暴自棄にならずに、きょうの労働に精を出せること。

 我々のレベルに置き換えると、
 望まない部署に配属されても、
 「将来なんかの役に立つかもしれないし」と思って
 前向きに取り組めることといえます。



二、全体把握感
~~~~~~~~~~~~~~~~

 先を見通す力、とも置き換えられるかもしれません。
 つらいことに直面すると、
 人は一生それが続くように感じてしまいますが、
 「ひとまず夜がくればこの過酷な労働も終わりだ」とか、
 「いつかは戦争が終わって解放されることもあるだろう」
 と思えること。

 仕事に転じれば、例えば今週は忙しくて
 土日出勤になったとします。
 
 「なんて忙しいんだ」と思うのではなく、
 「今週は休めなかったけど、
  来週のこの辺は少し余裕ができるから、そこで休めるな」
  など、先を見て心の段取りが取れること。

 それはそのまま仕事の段取りに通じます。
 「来週のこの辺で忙しくなりそうなので、
  他部署からヘルプをお願いできませんか?」
 と、パニックになる前に助けの要請を出せることで、
 自分もチームも円滑に仕事が回せるのです。



三、経験的処理可能感
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 つらい強制労働など、最初はこんなことは
 絶対にできないと思っても、
 「そういえばあの時もできないと思ったけど、
  意外とできたよな。今回もできるんじゃないかな」
 と思えること。

 初めて手がける仕事でも、過去の経験から
 この程度まではできるはず、
 でもその先は未知のゾーンだと冷静に読める。
 
 ただ、その未知のゾーンも、
 あの時の仕事の経験を応用すればできるかなとか、
 あの人に手伝ってもらえそうだなと把握できる感覚です。

 また、大きくとらえれば、学生時代に努力して
 練習したら大会で優勝できたじゃないかとか、
 先生に無理だと言われたが、頑張って勉強したら
 志望校に合格できたから今回もできるのではないか、
 と思えることも、経験的処理可能感といえるでしょう。


 これら三つの感覚はSOC(Sense of Coherence)と呼ばれ、
 一般的にストレス対処能力を測る物差しとされていますが、
 簡単にいってしまえば、
 「きっとうまくいくに違いない」という
 情緒的余裕と経験に基づく楽観性ではないかと思います。
       
       
           松崎一葉(筑波大学大学院医学系・教授)
        
        

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個性

「人間は、自分より偉い、優れた人に出会ったら、
 その人を心から尊敬できるような
 ナイーブなものを持っていなくちゃ駄目だ。

 他人への信頼と無私な行動とが一番よく
 自分の個性を育てるものだ」


小林秀雄

理論よりも行動を

子どものころから兄・小林秀雄は、
私には尊敬すべき存在だった。

私は兄から多くのことを教えられた。

しかし、私があんまり知らないことが多すぎて
恥ずかしいといったとき、


「何ももの知りにならなくてもいい」


といってくれて、


「学者はknowledgeだけあって、wisdomがないから駄目だ」


といったことがある。

人間は生きていくためにはもちろん
学問、知識(knowledge)は必要である。

しかし、物事をよく判断し、よく処理する心の動き、
賢さというようなもの、生きていく知恵(wisdom)は、
それ以上に大切であることを、兄はいうのである。

兄は理論よりも行動を重視した。
何かせずにはいられないという気持ちは、
愛情とか尊敬からおこるものである。

頭で考えているだけでは、
そういう気持ちにはなかなかなれない。

愛情をもって対象物を本当に理解しなければ、
実行することはできない。

知ることは行うことだ、と兄はいっていたし、

「実行という行為には、
 いつでも理論より豊かな何かが含まれている。
現実を重んじる人というよりは、
現実性を敬う心がある」


というようなこともいっていた。


私たちはあまりにも観念的になり、抽象的になり
理論的になっている。

理屈ばかりいって、実行しない者は多い。
現実を大切にしないからである。

実行するのは難しいことなのだが、
具体的にものをいうよりも、抽象的にいった方が
深みがあるように思っているからである。

しかし目の前に現れている現実、
具体のほうが大事なのである。

私が自分の結婚問題について、
手紙で兄に相談したとき、兄は長い返事をくれた。

その中にこういう言葉があった。


「人間が人間の真のよさだとか悪さだとか
 わかる迄には大変な苦労が要るものだ。
 
 人間を眺める時、その人間の頭にある思想を
 決して見てはならぬ。それは思想だ。人間じゃない。

 その中によさも悪さもあるものでない。
 大体、アリストテレスの言ったように、
 人生の目的は決してある独立した
 観念の裡(うち)にはないものだ。

 人間の幸不幸を定める生活様式の裡にあるのである、
 いい生活様式を得れば人間はそれでいい」


兄は何も知らない私に人間の見方と、
人生の幸福というものを教えてくれた。

人間は頭より情緒、心の優しさが大切で、
人間をみるというのは、実生活の具体的なものを、
しっかりみることである。
        
       
           高見澤潤子(劇作家)
        
        
  

目先の欲に溺れてはいけない

遠くをはかる者は富み

近くをはかる者は貧す

それ遠くをはかる者は百年のために杉苗を植う

まして春まきて秋実る物においてをや

ゆえに富有なり

近くをはかる者は春植えて秋実る物をも尚遠しとして植えず

唯眼前の利に迷うてまかずして取り

植えずして刈り取る事のみ目につく

故に貧窮す


二宮 尊徳

座忘

新しいものを取り入れるためには

まず古いものを捨てなければならない

まず古いものを捨てて場所を空けないと

新しいものは入らないのです

小説と物語の違い

基本的には、物語は「出来事の連鎖」によって成り立つものを指します。

藤井貞和氏の言葉を用いると、

聞き手の「それからどうした、それからどうした」

という欲求をみたしていく性質を持っているということになります。
 

一方、小説の概念は近代以降のもので、

単に出来事の連鎖に止まらず、

出来事と出来事の間に相関的な意味のつながり(因果関係)

が存在するように書かれた物だ、

というように言われています。
 

但し、物語の中にも(近代の)小説的要素を持つ場合があり(源氏物語など)、

逆に小説の中にも物語的な要素を持つものがある(谷崎の「細雪」など)。
 
近世の作品などには物語的なもの(馬琴の八犬伝)

もあれば小説的なもの(西鶴の胸算用など)もありますから、

厳密な定義は大変に難しいのですが、

近代以前と以降で分類するのが一番分かり易いようにも思います。
 


yahoo 知恵袋

自分

自分というものは良い言葉である。

ある物が独自に存在すると同時に、
また全体の部分として存在する、
自分の自の方は独自に存在する、
自分の分の方は全体の部分である。
 
この円満無碍(むげ)なる一致を表現して「自分」という。

われわれは自分を知り、自分を尽くせば良いのである。

しかるにそれを知らずして自分、自分といいながら、
実は自己自私を恣(ほし)いままにしている。
そこにあらゆる矛盾(むじゅん)や罪悪が生ずる。


安岡 正篤

釜石の奇跡

釜石市内の小・中学校での防災教育は、
 年間五時間から十数時間行ったが、
 子供たちに教えたことを彼らの中だけで完結させてしまうと、
 家庭や地域へと広まってはいかない。
 
 そこで私は授業の最後に次のことを問い掛けた。
 
 
 「君たちは先生が教えてきたとおり、
  学校で地震に遭えば絶対に逃げてくれると思う。
  だけど、君たちが逃げた後に、
  お父さんやお母さんはどうするだろう?」


 すると、子供たちの表情は一斉に曇る。

 お父さんやお母さんは自分のことを大事に思うがゆえに、
 学校まで自分を迎えに来るであろうこと、
 そしてその帰結がどうなるかが想像できるからである。


 私は続けてこう話をした。
 
 
 「きょう家に帰ったら、お父さんやお母さんに
  君たちが教えてあげるんだ。
  
  『いざという時は、僕は必ず逃げるから、
   お父さんやお母さんも必ず逃げてほしい』
   
  と。そのことを心から信じてくれるまでちゃんと伝えるんだ」

  
 その日は授業参観日だったため、
 子供たちだけがいる場でそう言い聞かせた一方、
 保護者が集まっている場所へも行き、次のように話をした。


「私が行った授業を踏まえ、子供たちはきょう、
“いざという時は、僕は必ず逃げるから、
 お父さんやお母さんも必ず逃げてね”と一所懸命に言うと思う。

 あの子たちは、お父さんお母さんが、
 自分のことを心配してくれるがゆえに
 命を落としてしまいはしないかと心配している。
 
 でも皆さんも、子供たちが絶対に逃げてくれると
 信用できないと、自分一人で逃げるという決断が
 なかなかできないだろう。
 
 だから、その確信が持てるまで、
 きょうは十分話し合ってほしい」


 そして最後にこんな話をした。


「東北地方には“津波てんでんこ”という言い伝えがある。
 津波がきたら、てんでんばらばらに逃げないと
 家族や地域が全滅してしまうという教訓だ。

 しかし、これを本当に実行できるだろうか。
 
 私にも娘が一人いるが、例えば地震がきて
 娘が瓦礫の下敷きになっていたとしたら、
 たとえ津波がくることが分かっていたとしても、
 たぶん私は逃げないと思う。

 どう考えても逃げることなどできない。

 にもかかわらず、先人はなぜこんな言葉を
 残してくれたのだろう。
 
 私はその真意を考えた。
 
 
 おそらくこの言葉には、津波襲来のたびに、
 家族の絆がかえって一家の滅亡を導くという
 不幸な結果が繰り返されてきたことが背景にある。
 
 その苦渋に満ちた思いとともに
 我々の先人が残してくれたのが、
 “津波てんでんこ”という言葉ではないか。

 その意味するところは、老いも若きも、
 一人ひとりが自分の命に責任を持てということ。
 
 そしていま一つの意味は、家族同士が
 お互いに信じ合っていることが
 大事だということではないだろうか。


 子供は、お母さんは
 必ず後からちゃんと迎えに来てくれると、
 お母さんを信頼して逃げる。
 
 一方、お母さんは、子供を迎えに行きたいが、
 我が子は絶対逃げてくれているという信頼のもと、
 勇気を持って逃げる。
 
 これは家族がお互いに信用し合っていなければできない。
 
 “津波てんでんこ”とは、
 自分の命に責任を持つということだけではなく、
 それを家族が信じ合っている。
 そんな家庭を築いておけ、という意味ではないだろうか」


 今回の震災で、釜石では市全体で
 約千三百人が亡くなったが、
 学校の管理下になかった五人を除いては
 全員が生き残ってくれた。
 
 さらにその三千人の小・中学生の親を調べてみると、
 亡くなったのは四十人程度で、
 全体から見ても少ない数となった。
 
 これは子供を通じて行った
 親や地域への防災教育の取り組みや
 “津波てんでんこ”の話が
 うまく伝わった結果ではないかと感じている。



  片田敏孝(群馬大学大学院教授)

感謝

商売は、賢愚の差より熱意の差。
  その熱意は魂の力、
  徳の力で生まれてきます。

  恩返しが上手な人ほど、
  魂が強くなって徳の力が強くなる。
  そして一番の恩返しが、やはり親孝行です。



日比孝吉(めいらくグループ代表兼CEO )

進歩

古い葉が落ちなければ
新しい葉は出てこない

古い衣を脱ぎ捨てなければ
新しい衣は着られない

すべての進歩は
脱落脱衣を前提とする



              坂村 真民

日本人

「本当のこと」に目覚めて、日本国を良くしよう 戦後、
日本人は歴史を否定したために、
すべてのことを現在の知識だけで考え、
自分中心に物事を判断するようになった。
これが大変な間違いで、
今のような乱れた日本の国になってしまったのです。

日本人は今、原点に返ってもっと世の中の
本当のことを知らないといけない。
商売の利益になるというだけで、
休耕田をふやし、外国から食料を輸入して
平気で食べているけれど、
食物を消化吸収するというのは、
胃や腸の細胞の中にある遺伝子の働きなんです。

遺伝子の中には百五十億年前から伝えられている
神の知恵と地球上に生物誕生以来、
祖先が代々伝えてきた経験の知恵が含まれています。
だから祖先が昔から食べてきたものは消化できるけれど、
日本人の遺伝子の記憶にない食べ物は体が消化しにくい。

消化しにくいからお腹の中に不消化物がたまり、
そこから毒素が出て病人がいくらでも増えるんですよ。
医療費に何兆円という莫大な金を
つぎ込んでいるのは日本だけです。
日本人なんだから、日本で取れたものを食べなさい。
これが健康の元なんです。
企業の利益なんてその後のことだ。
まず、国民が元気になるということが原点でしょ。

外国のものばかり食べて育った子供たちは、
体は大きくなっても体力がない。
栄養学の問題じゃないんだ。
日本人は日本の米を食べなきゃエネルギーににならないんです。
子供たちに今、日本人の生命(いのち)が伝わっていない。
生命が伝わらないものは死にます。

生命とは生きる知恵のことです。
知恵は歴史からしか学べない。
だけど今、教育者たちは知恵と知識を混同して、
知識ばかりを詰め込んでいる。
生命を伝えるということは、
昔からの歴史を伝えるということだ。
今の若い人は歴史を振り返るという心がなくなっている。

なんでも「俺は関係ない。俺は知らない」と口癖のようにいうでしょ。
これは既に日本人の生命(生きる知恵)が消えている証拠です。
昔はみんな年寄りから昔のことを教わった。
それが生命を伝えるということです。

今の教育は日本の生命をなくしているんだ。
歴史の教科書には日本の悪いことばかり書いてある。
これじゃ子供たちは日本に誇りをもてない。
この状況でもう五十年経ったんです。
日本人は日本の正しい歴史と伝統を受け継ぎ、
次の世代に伝えなくてはいけない。
目先の知識だけに振り回されないで『本当のこと』に目覚めて、
乱れてしまった日本をみんなで良くしていきましょう。


葉室 頼昭 宮司

つみかさね

「自己効力感」は
どんな小さなことでもいいから
自分から挑戦して
「できた」「わかった」「やり遂げた」
という成功経験のつみかさねに
よって養われるものです。

はじめからできないと決めてしまわずに
とにかく、行動に移してみる。
そうすれば、案外、
自分にもできるということが実感でき、
道が開けるものです。
その成功経験のつみかさねによって
「自己効力感」が養われ、
それによって自信が芽生え、
さらに挑戦しようとする
意欲が泉のように湧いてきます。

【日本人】

なぜナショナリズムというものがいけないかと申しますと、
これは自分の国民だけをむやみに主張して他を
排斥(はいせき)する。
つまり排他的民族主義になる。

そういうものをショウヴィニズムと申します。
これがいけない。

しかしナショナリティ(国民性)というものは大事である。
これなくして世界性、国際性、宇宙性というものは
何も出てこない。

やはり日本人は日本の個性、特殊性というものがあって、
どこまでも日本人は日本人でなければならぬ。
それでなくて世界市民になれるわけがない。


安岡 正篤

善人

パスカルは言った

「正義が強いか、強い者が正義か、正しい者が強くなるか、
 強い者が正しくなるか、より外に人間は救われない」
と言うておりますが、

救われるためにはどうしても善人が
強くならなければいけません。

強くなるためには、感情的・感傷的にならずに、
線が太くならなければいけません。

計画の立て方のコツ

1.夏休みが終わるまでの目標を立てる
   「絶対にここまではやりとげるぞ!」という決意を書いておく
       ↓
2.1週間ごとの目標と学習計画を設定する
   「7日間でやりとげる学習内容」を決定する
       ↓
3.1日ごとに何をやるべきかを書いておき、それを毎日実行する


このように、大きな目標から中間目標、
そして1日ごとの小さな目標におとしていって
計画を立てると実行しやすいですよ。

點醒

人に暗示をかけてでも、
良き道へ向かうよう悟らせてあげることを、
點醒(てんせい)と吉田松陰は言ったが、
今、教育にも子育てにも活かせたいものだ

點醒(テンセイ)の意味は他に、
暗示を使うべきときに使い、
暗示を使わないでいいときは、
決して使わないと言う意味もある。
暗示は、言葉の暗示もあれば、ないものもある。

松陰先生は優れた指導者だったために、
點醒(テンセイ)を使いこなせても、
本当に伝えたいことは、
言葉ではなかなか伝えられないことを見抜き、
その塾生のそばにただいてあげたり、
その人に接するときは、たった一度、
肩をポーンとたたいて励ましたりするだけで、
俄然やる気をおこさせてしまうほどだった。

その天性の指導者が點醒(テンセイ)を使うほど、
人を導くのは難しいものだと言っているのだ。
人を導く立場にあるものは努力して

「教えて教えないこと、 教えないで教えること」

のできる姿勢で臨みたいものだ。

【利の害】

史記の中に
「利は智をして昏(くら)からしむ」
と書いている。

人間は利益ばかり追求していると、
頭が悪くなるというのである。

物事の理(ことわり)がわからなくなって、
思いがけない恨(うら)みを招いたりする。

論語にも

「利を以(もっ)て行えば怨(うら)み多し」
と出ているが、経済というものは本来、
矛盾(むじゅん)衝突を内包するから、
利害による怨(うら)みが出易い。


安岡 正篤

勉強しても成績の上がらない人

①間違っても悔しくない人
②次何をするのですかと「他力本願」愛好家
③時間が過ぎればよいという人
④来塾する時間にばらつきがある人
(遊びの間に勉強すればいいと思っている人)
⑤ノートまとめを嫌がる人
⑥マーキングをしないで、ただぼんやり眺めている人
⑦嘘をつく人


テキストを前から順にしかできない人

すなわち

確認問題
基本問題
標準問題   と普通のテキストは配列されています

確認→確認→・・・
基本→基本→・・・
標準→標準→・・・

横に追っかけてやらないと 
せっかくの基本、標準が死んでしまいます

ジェームス・アレンという人の言葉を紹介します。

「成功を手にできないでいる人たちは
自分の欲望をまったく犠牲にしていない人たちです。
もし成功を願うならば、
それ相当の自己犠牲を払わなくてはなりません。
大きな成功を願うならば、大きな自己犠牲を、
この上なく大きな成功を願うならば、この上なく大きな犠牲を
払わなくてはならないのです」

自己犠牲のないところに成功はありません。

「仕えてその道を能(よ)くす。これを達という」


一つのことに仕えて道にまで達する人を達人という。
私たちも、その境地にまで行きたいものです。

「ゆい」とは、田植え、屋根葺きなど

一時に多大な労力を要する際におこなう共同労働の形態のことであり、

「もやい」と称されることもあるが、厳密には「もやい」が

「共にあるものが共に事を行う、あるいは共にもつ」のに対し、

「ゆい」は「共にはないが、たがいの約束にもとづいて共に事を行う」ものであり、

歴史的には「ゆひもやとはで、早苗とりてん」

の歌がすでに鎌倉時代にみられるところから、

中世もしくはそれ以前にさかのぼる民俗であったと推定される。

ここにおける「やとう(ふ)」は「家問う(ふ)」が原義と考えられ、

頼むべき家々をまわって労力の共同を申し入れ、

それによって助けられれば自分の家もそれに応じて返すことを前提としていた。

それに対し、「もやい」には、たがいに労力を貸し借りする観念はなかった。

融通無碍

融通無碍は広辞苑によると
「一定の考え方にとらわれることなく、
どんな事態にもとどこおりなく対応できる事。」とある。


「主義といい、道といって、

必ずこれのみと断定するのは、

おれは昔から好まない。

単に道といっても、

道には、大小厚薄濃淡の差がある。

しかるにその一つを揚げて、

他を排斥するのは、

おれの取らないところだ。

人が来て囂々とおれを責めるときには、

おれは『そうだろう』と答えておいて争わない。

そして後から精密に考えてその大小を比較し、

この上にもさらに上があるだろうと想うと、

実に愉快で堪えられない。

もしわが守るところが大道であるなら、

他の小道は小道として放っておけばよいではないか。

智慧の研究は棺の蓋をするときに終わるのだ。

こういう考えを始終持っていると実に面白いョ」。


―勝海舟著『氷川清話』―

日新 日日新


 「一日の決算は一日にやる。
  失敗もあるであろう。
  しかし、昨日を悔やむこともしないし、
  明日を思い煩うこともしない。
  
  新たにきょうという清浄無垢な日を迎える。
  ぼくはこれを銘として、毎朝
  『きょうを精いっぱい生きよう』と誓い、
  全力を傾けて生きる」


土光敏夫

リーダーには哲学が必要

 私はリーダーには哲学が必要だと思います。
  今回の震災を通して日本人は家族や国、
  地域のコミュニティの絆の大切さを確認しました。
  
  そのベースには先祖代々日本人が守ってきた
  鎮守の森があった。
  そのことを決して軽視すべきではありませんね。

  ですからリーダーたる人たちは
  コミュニティの大切さを哲学として学ぶべきでしょう。



安倍晋三(第九十代内閣総理大臣)

『維新と革命』

物が改まるのには、
大きく分けると2つあります。
『革命』と『維新』の2つあります。

『革』は改まるという意味で
『命を改める』というのは
根本からやりかえること。
それが『革命』

それに対して『維新』というのは
『維』は接頭辞ですから、
だんだん日々に変化していく。
日に新たに、また日に新たに
だんだん変化していくのを
『維新』というのです。

病気でいえば『維新』というのは
内服療法で徐々に治していくやりかたですね。

『革命』というのは外科手術ですね。
外科手術は患部をすべて取り除くため、
治りが早いですけど
必ず後遺症や痛みを伴うことが多いですね。

『平成』の由来・・・

書経 「地平らかに天成る」

『昭和』の由来・・・

書経 「百姓昭明にして万邦を協和す」

『大正』の由来・・・

易経 「大いに亨りてもって正しきは天の道なり」

『明治』の由来・・・

易経 「聖人南面して天下を聴き、明に嚮(むか)いて治む」

今私が目指していること

1、前力な生徒を育てること。
2、心が前にある生徒をつくること。
3、力を最大源に発揮できる環境を整えてやること。



これ、全部生徒が間違えた当て字な目標なんです。
でも、全部に意味があって全部面白い。
子供たちってすごい才能を持っていると思うんです。

1は、いつでも前向きな力で全力で取り組むこと。
2は、心構えとはいつも心が前にあること。
3は、自分のパワーの源を最大限に発揮できるように。

「常勝」よりも「常笑」。
「勝ち」よりも「価値」を求めて。


毎日の『致知』の読書の時間は
これからも絶対に欠かせません。


とある教職員さん

大根のままじゃ売れないんだよ!

大根のままじゃ売れないんだよ!」と言って、
ご自分でタクワンを作ったり、
きゅうりの漬物をつくって売っている近所の農家のおばあさん74歳。

最近は、自作のカステラまで売って近所で喜ばれているおばあさん。
これって商売の本質じゃないか?と感じます。


取れたての野菜を売るだけで、
店で売られているものより新鮮と売れた時代
があったそうです。
でも、同業他者が増えてきたらそれだけでは売れなくなったそうです。

そこで、考えたのが加工して売るという業だそうです。

いくら新鮮でも時間や技の問題で
上手に調理することができない家庭が
増えてきたからだそうです。


おばあさんの学歴は中卒。
でも、貧しく苦しい人生を積極的に生きてきたそうです。
だから方程式を知らなくても
色々工夫して生きる術を身につけて来られたようです。


とは、いうものの、時々上手に加工できないこともあるようです。
そんな時は、うまくいく時と何が違うか考えるのだそうです。

「漬ける時間はどうだったのか?」

「砂糖の量がどうだったのか?」

と・・・

おかげで大分上手になったと、
笑いながら自慢している姿がかわいいおばあさんです。

若い者も学ぶところがたくさんあります。

【朝こそすべて】

英仏の古諺に曰く「朝こそすべて」と。

一日二十四時間、
朝があり昼があり夜があるとするのは
死んだ機械の一日にすぎない。

活きた時間は朝だけ、
換言すれば、
本当の朝をもたなければ
一日無意義だということだ。

朝を活かすことから人生は始まる。

【大地の徳】

偉くなることは、必ずしも富士山のように
仰(あお)がれるようになるためではない。

なるほど富士山は立派だけれども、
それよりも何よりも立派なものは大地である。

この大地は万山を載(の)せて一向に重しとしない。
限りなき谷やら川やらを載せて敢(あ)えていとわない。
常に平々坦々(たんたん)としておる。

この大地こそ本当の徳である。
われわれもこの大地のような徳を持たなければならぬ、
大地のような人間にならなければならぬ。



安岡 正篤

「學」「習」

「學」の漢字は、「コウ(例の×が2つ上下に重なった字)」が
「キク」という字にはさまれて
「ヤネ(ウ冠のような字)」の上にのっている部分と、
「子」の部分から成る漢字です。

「コウ」は交差・交流などの意を表し、
「キク」は両方(2人?)の手、
「ヤネ」は屋根のある家を表します。

子(弟子)が師に向き合って交流し、
知識などを伝授される様を表す漢字です。
師と弟子との間における知識等の伝授は、
まずは師による行為としてあらわれます。
続いて、「コウ」の字があることからわかるように、
弟子による授けられた知識等を受け取る行為も意味しています。
すなわち、「學」の字は、師弟が向き合い、
師が知識等を授け、
弟子がそれを受取ることを意味しているのです。
 

「まなぶ」という日本語は、
「マネブ」「マ・ナラフ」という語が転じたものと言われています。
「マネブ」は「真似ぶ」「真(誠)擬ぶ」であり、
マコトたる真理と誠実とについて、
正しい手本をまねることです。「
マ・ナラフ」は「真(誠)習ふ」であり、
真理と誠実とについて習うことです。
「まなぶ」という日本語には、
真理(すなわち深い知識)と誠実(すなわち道徳)について、
正しい手本からまね、習うことという意味があるのです。
 
では、「習」という漢字はどうでしょう。
「習」という漢字は、「羽」と「白」の2つの部分から成っています。
「羽」は、鳥の二枚のはねを並べた象形文字。
「白」は、この場合、「曰」の変形文字で、
発語に限らず、さまざまな行為が行われる意味を示す字です
(「自」の変形で鼻を表すという説もあります)。
「習」の漢字は、鳥が二枚の羽を何度も何度も
羽ばたかせている様を示した文字です。
習得しなければならない行為は、
習得しようとした時点では
まだ十分に身に着けていない行為です。
そうなると「習」の字は、もっと言えば、
巣立ちを迎えた雛鳥やうまく飛べない若鳥が、
繰り返し羽根を羽ばたかせて、
よりよい飛び方を身に着けようとしている様を示しているともいえましょう。
「習」という漢字は、
何度も繰り返してある行為などを身に着けようとする行為を意味しています。
「ならう」という日本語は、
「ナレアフ」「ナラシフ」「ナラブ」という語が転じた語といわれています。
「ナレアフ」は「馴合う」であり、
「ナラシフ」は「馴歴」であり、
何らかのものごとやルールに合った行動をするようになることです。
「ナラブ」は「並ぶ」であり、
高度な知識・態度・能力などを身に着けている者と、
同等程度のものを身に着けている状態のことです。
「ならう」という日本語には、手本とすべき人物などを見習って
高度な知識・態度・能力を身につけるという意味があるのです。

扇風機

扇風機はエアコンと違って、

部屋の温度を下げるわけではないので、
 
温度計に扇風機を当てても目盛は下がらないんです。
 
夏の暑い時期に扇風機に当たると涼しく感じるのは、

風が汗を蒸発させてその分皮膚の温度を下げてくれるからです。

温度計自体が汗をかくわけがないので
 
いくら扇風機を当てても目盛が下がることはあり得りえないんですね。

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プロフィール

矢野 一成

Author:矢野 一成
愛媛県新居浜市 アール塾塾長

備忘録、すなわち
忘れたときのために備えて、
書きとめておく、
個人的な雑記帳です。

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