日本一アツイ教育を実践する男が語るBLOG

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1000年に一度の大震災があった平成23年よ、さようなら

  内外の状況を深思しましょう。
  このままで往けば、日本は自滅するほかはありません。
  我々はこれをどうすることも出来ないのでしょうか。
  我々が何もしなければ、誰がどうしてくれましょうか。
  我々が何とかするほか無いのです。
  我々は日本を易(か)えることが出来ます。
  暗黒を嘆くより、一燈を点けましょう。
  我々はまず我々の周囲の暗を照す一燈になりましょう。
  手のとどく限り、至る所に燈明(とうみょう)を供えましょう。
  一人一燈なれば、萬人萬燈です。
  日本はたちまち明るくなりましょう。
  これ我々の萬燈行であります。
  互に真剣にこの世直し行を励もうではありませんか。

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要領(ようりょう)

1、物事の主要な部分。要点。
2、物事をうまく処理する方法・手段。


「要」は腰、

「領」は首すじの意。

人が立った姿勢を保つ上の急所であるところから、

物事の肝心なところ。

一説には「腰帯」「襟」を指し、

衣服を着たり畳んだりする場合の

肝心な箇所であるところから生じたともあります。


「要」は「腰」を表す象形文字で、本来は“腰”の意。

ところが後に“要”の意になり、

“要点”“重要”や“要求”“必要”と使われることが多くなり、

本来の“腰”の意味が通じなくなったために、

人体を表す「月偏」(にくづきへん)を加えて

「腰」の字を別に作りました。


「適当」も良い意味と悪い意味、両方の使用がありましたが、

「要領がいい」も意味が分かれます。

1、処理のしかたがうまい。手際がいい。
2、手を抜いたり、人に取り入ったりするのがうまい。


逆の「要領を得ない」は、マイナス評価。

主要な点がはっきりしない。筋道が立っていない。


「不得要領」(ふとくようりょう)という語もありました。

要領を得ないこと。要点がはっきりしないこと。また、そのさま


要領を得ない電話や報告にならないように気をつけたいものです。


次に“主要な部分”という意味の「要領」を見ると、

学習指導要領・教育要領・業務取扱要領・

決算短信記載要領・道路設計要領・公募要領・

新年一般参賀要領・・

味も素っ気もない、箇条書きの文書が目に浮かびます。

似た意味に、

「要綱」があります。

基本となる大切な事柄。また、それらをまとめたもの。綱要。

同音に、

「要項」
大切な事柄。必要な事項。また、それを記した文書。


それでは、

「要領」「要綱」「要項」の使い分けは?


いずれも行政機関の内部規程的な性格の語で

実質的差異はないとのこと。

とはいえ、

大綱的に指針・基準を定める場合には「要綱」を、

細目的に定める場合には「要項」又は「要領」を、

というように使い分けられているようです。

大局観

 「基本や基礎をしっかりと固めるためには、

とにかくある一定のまとまった時間を

費やさなければ身に付かないし、進歩は期待できない。
 
また、最初のうちは練習量に比例して上達していくが、

いずれその伸びが止まり、停滞期に入ることもある。
 
でも、その停滞期も量をこなすことによって乗り越えられる。
 
とにかく多くの時間を使って、繰り返し、繰り返し、

練習を重ねてレベルアップをして突き抜けることが重要である。
 
安心も自信も、そんな小さな積み重ねのなかから、

徐々に育て上げていくものではないかと考えている。」



羽生善治


解き方のコツ」を知っているだけではアップできません。


「解き方のコツ」をつかんだら、それを使って演習を繰り返す必要があります。


実力をしっかりと固めるためには、ある一定の演習時間を費やす必要があり、


それを実行しない限り進歩はありません。


文章を読んだり、設問を解くことを繰り返し行っているうちに、


「ああ、こういうふうに解けばいいのか!」ということがわかってきます。


そして、そのコツが身に付いたら、そのコツを使ってさらに演習を繰り返しましょう。


こうした小さな積み重ねが学力を伸ばし、大きな自信につながっていきます。

性格はふたつの手だての結果で決まる

性格はふたつの手だての結果で決まる。
          
ひとつは気持ちの持ち方、
          
もうひとつは時間の使い方である。
          
何を考えているか、
          
何をするかで今の自分が決まるわけだ
          


エルバート・ハバード 「簡単な人生」

責任は自分にあり

 行いて得えざる者あれば、皆反りて諸れを己れに求む。
                     
                  (孟子)
 
 【訳】
 自分がやってみてうまくいかないことがあれば、
 すべて自分の責任にして反省し検討する。
 自分がしたことの結果を人のせいにしないということである。
 これは『論語』にも繰り返し出てくる教えである

困学

険(けん)にしてもって説(よろこ)ぶ。
困(くる)しみてその亨(とお)るところを失わざるは、
それ唯(た)だ君子のみか。

易経

【訳】
困窮の極みの険難にあっても、乗り切った後の悦びを信じて
やり通すことのできるのは、君子だけである。

しかし、どんな人でも困難から学ぼうとすれば、
苦しみが何を教えているのか会得できるものである。

これを「困学」という。

苦しんで学べないのは小人であり、
小人のままでは困窮を脱することは難しい。


結果を考えずとにかくやってみる

 『得意だからやってみるとか、不得意だからやらないとか、

   そういう物差しはあまり持ってなくて、とにかくやってみる。

   できるかどうかなんていうことは

   そのあと考えればいいんだし……』 




黒木瞳


やってみれば、成功の可能性はある
やってみなければ、絶対に成功はない



『やってみなはれ。
   やらなわかりまへんで』 



鳥井信治郎




知識、見識、胆識

   安岡正篤先生による「知識、見識、胆識」
   という有名な教えがあります。

   知識がいかにあってもさほど意味はない。
   人間はどんな志を持ち、何を目指して
   この二度とない一生を全うするかという観点に立つ時、
   知識が見識になる。

   しかしその見識は、実践して生かしていかなければ
   意味がなく、そのためには勇気と決断がいる。
   それを伴った見識が胆識であると。



荒井桂(郷学研修所 安岡正篤記念館副理事長兼所長)

至誠と実行

我が道は至誠と実行のみ。

故に鳥獣虫魚草木にも皆及ぼすべし。

況(いわ)んや人に於けるをや。



二宮 尊徳

【人間作り】

花作りも
人間作りも同じだ
どんないい種でも
しっかりと土作りをし
たっぷりと肥料をやり
うんと光と水とを与えてやらねば
いい花は咲かない
日々の努力
念々の精進
その果てに
見事な花が咲き
見事な実がなり
真実な人間が出来あがる



坂村 真民

期待しすぎは不幸の元

『望み通りのことを期待してはいけない。

          
すべてを起こるに任せれば、

         
問題なくやっていける』

           エピクテトス


   望み通りにいかないこともある
   そうなっても、平然と
   やるべきことをやればそれでいい


 『物事は現実的に見て考えねばならない。
   自分たちの能力以上のものを期待すると、
   失望してしまうものだ』 

イビチャ・オシム


  期待しすぎは不幸の元。


  『生きることの最大の障害は期待をもつということである。
   それは明日に依存して今日を失うことである』 


セネカ



  『人間は現在をどのように生かしていいか知らないから、
   未来に期待やあこがれを持ったり、過去に媚を贈ったりする』


ゲーテ


始終訓

一、人の生涯、何事によらず、もうお終と思うなかれ。
  未だかって始めらしき始めを持たざるを思うべし。

一、志業は、その行きづまりを見せずして、
  一生を終るを真実の心得となす。

一、成功は、一分の霊感と九分の流汗に由る。
  退屈は、死の予告と知るべし。



安岡 正篤

無関心

  『批判されても気にすることはないのです。
   世間からすれば、あなたはどうでもいい存在なのですから、
   無責任に言いたい放題なのです』 

A・スマナサーラ


  
人は自分のことをよく知らずに言いたいことを言う。

  
『愛の反対は憎しみではなく無関心です』 

マザー・テレサ

【する仕事】

させられる仕事からする仕事に変わるとき、

苦しみは喜びに変わり、

生きがいに眼を輝かせる。



東井 義雄

「知識人」とか言われる人たちは、
庶民の喜び、悲しみ、涙、人情などを
冷笑する風潮が強い。

「涙」は根源的ないのちの噴出。
理屈も、学問も、イデオロギーも手出しのできないもの。

また、それ故に、「いのち」を根源的に
ゆり動かす力を持っているもの。



東井 義雄

人生の目的

『人生の目的は生きることであり、
          
生きることは感じることだ。
          
喜びに満ち、酔いしれ、
          
安らぎ、厳かに、感じることだ』



ヘンリー・ミラー


  
『本当の喜びは、味わいの中にある。
   
物事の中にあるのではない』 



ラ・ロシュフーコー



『私が平素、心がけていることは、小さな喜びをできるだけ
   
大きく感じ取れるような自分になること』 



鍵山秀三郎

敏の本義

自分の人生を美しくするために、
仕事のために、友人のために、世の中のために、
できるだけ気をつけよう、役にたとう、
まめにつくそうと心身を働かすことが敏の本義である。

ひらたくいえば、
いつも怠りをしないでいつもきびきびしている。
その代わり世間のくだらんことには
ずいぶんと怠けてもよろしい。



『安岡正篤

神仏に頼りすぎない

鬼(き)神(しん)を敬(けい)して、
之(こ)れを遠(とお)ざく。(論語・雍也第六)


<解説>

鬼神というのは日本で言うなら神仏である。

神仏をありがたがるのはいいけれども、
無闇に近づいてはいけない、と言っている。

それで思い出すのは宮本武蔵である。
武蔵が吉岡一門との決闘を前に、
通りかかった神社で武運を祈ろうとする。
そこでハタと気がついて、神は尊ぶべし、
頼る気は起こしてはいけないと思い直す場面があった。

また、私の母はなんでも神前で祈る人を軽蔑していた。
母の観察によれば、そういう人たちは縁起かつぎでよくない。
普通の人は盆と正月と命日だけ行けばいい、というのである。

私の観察では、日本人であまりにも
教会に熱心に通う人は付き合いにくいタイプが多いようだ。

本当に立派な信者もいるけれども、多くは偽善的になりやすい。
日本人のセンスから言うと、多くても週一回か、
あるいはクリスマスなどの大きな祝日に行けばいいのでは、
という感じがするのである。

『四書五経 一日一言』渡部昇一・著より(致知出版社刊)

人に期待しすぎないこと

『愚かなる人は、
         
深くものを頼むゆえに、
          
恨み、怒ることあり』


          
吉田兼好 「徒然草」



  『穏やかな平静の心を得るために、
   第一に必要なものは、諸君の周囲の人達に
   多くを期待しないことである』 ウィリアム・オスラー

  『他人をあてにしてはならない。
   それは期待するほうが間違っている』 ゴーリキー

  『収穫を求めすぎないほうが、友情はたくさん実るね』 斎藤茂太


  人に期待しすぎると、苛立ちや失望などが多くなる。


  『人と人とのあいだに起こる問題のほとんどは、
   誰しもがまず他人を変えようとするところから
   発生するのです』 ロバート・コンクリン

実力

「歳寒くして然る後に松柏の凋むに遅るるを知る」




(寒い冬になって初めて松や柏が落葉しないことが分かるように、

人も困難に直面して初めてその人の本当の姿や実力が分かる)

『論語』

承活伝

文化は『承活伝』の法則にしたがって

後世に伝えなけねばならない

まず、誰かが昔からの伝統をj継承し

現実の生活においてそれを活かし、

後世へと伝えていく

こういった作用がなければ

文化は残っていかないでしょう

アインシュタインのことば

大正11年11月

●日本人は、これまで知り合ったどこの国の人よりも
 
 うわべだけでなく、すべての物事に対して物静かで

 控えめで、知的で、芸術好きで思いやりがあって

 非常に感じがよい人たちです

●日本人の素晴らしさは、きちんとした躾や

 『こころ』のやさしさにある

●この地球という星の上に今もなお

 こんな優美な芸術的伝統を持ち、

 あのような素朴な心の美しさを備えている

 国民が存在している



波田野 毅「世界の偉人たちが贈る日本賛辞の至言33撰」より

校長先生の最後の授業

(『致知』2011年1月号 特集「盛衰の原理」より)

私が考える教育の究極の目的は
「親に感謝、親を大切にする」です。
高校生の多くはいままで自分一人の力で
生きてきたように思っている。
親が苦労して育ててくれたことを知らないんです。

これは天草東高時代から継続して行ったことですが、
このことを教えるのに一番ふさわしい機会として、
私は卒業式の日を選びました。

式の後、三年生と保護者を全員視聴覚室に集めて、
私が最後の授業をするんです。

そのためにはまず形から整えなくちゃいかんということで、
後ろに立っている保護者を生徒の席に座らせ、
生徒をその横に正座させる。
そして全員に目を瞑らせてからこう話を切り出します。

「いままで、お父さん、お母さんに
 いろんなことをしてもらったり、
 心配をかけたりしただろう。
 それを思い出してみろ。
 
 交通事故に遭って入院した者もいれば、
 親子喧嘩をしたり、こんな飯は食えんと
 お母さんの弁当に文句を言った者もおる……」
 

そういう話をしているうちに涙を流す者が出てきます。

「おまえたちを高校へ行かせるために、
 ご両親は一所懸命働いて、
 その金ばたくさん使いなさったぞ。
 
 そういうことを考えたことがあったか。
 学校の先生にお世話になりましたと言う前に、
 まず親に感謝しろ」

そして

「心の底から親に迷惑を掛けた、苦労を掛けたと思う者は、
 いま、お父さんお母さんが隣におられるから、
 その手ば握ってみろ」
 
 
と言うわけです。

すると一人、二人と繋いでいって、
最後には全員が手を繋ぐ。
私はそれを確認した上で、こう声を張り上げます。

「その手がねぇ! 十八年間おまえたちを育ててきた手だ。
 分かるか。……親の手をね、これまで握ったことがあったか?
 おまえたちが生まれた頃は、柔らかい手をしておられた。
 
 いま、ゴツゴツとした手をしておられるのは、
 おまえたちを育てるために
 大変な苦労してこられたからたい。それを忘れるな」

その上でさらに

「十八年間振り返って、親に本当にすまんかった、
 心から感謝すると思う者は、いま一度強く手を握れ」
 

と言うと、あちこちから嗚咽が聞こえてくる。

私は

「よし、目を開けろ。分かったや?
 私が教えたかったのはここたい。
 親に感謝、親を大切にする授業、終わり」
 
 
と言って部屋を出ていく。
振り返ると親と子が抱き合って涙を流しているんです。


大畑誠也(九州ルーテル学院大学客員教授)

教える

思想もまた、人に語ることによって、

より確実に自分のものとなる。
   
すなわち、教えることは学ぶことであり、
   
与えることは与えられることなのだ 



ジョン・トッド

ほんとうのほんね

迷いのままで、事を行なうと
「すまん」とか「悪いなあ」という思いがこみあげてくる。

その「すまん」「悪いなあ!」という思いは、
人間の一番奥底から出てくる思いだ。

それを手がかりに自分の底の底まで掘りおこしていくと、
そこに「ほんとうのほんね」が現われてくる。

「ほんとうのほんね」は、自分を生かすだけでなく
他をも生かすもの、人間のいのちのふるさとにつながっていく。

倶(く)会(え)一(いっ)処(しょ)の
世界(ともにひとところにであう世界)、
そこから「ほんとうのほんね」は出てくるのだと思う。



東井 義雄

世の中ほど正直なものはない。

世の中ほど正直なものはない。

ほんとうの真実というものは、
必ずいつかは輝き出すものだと思うのです。

ただそれがいつ現れ出すか、
三年、五年にして現れるか、
それとも十年、二十年たって初めて輝き出すか、
それとも生前において輝くか、
ないしは死後に至って
初めて輝くかの相違があるだけです。

人間も自分の肉体が白骨と化し去った後、
せめて多少でも生前の真実の余光の輝き出すことを
念じるくらいでなければ、
現在眼前の一言一行についても、
真に自己を磨こうという気持ちには
なりにくいものかと思うのです。



森 信三

家に三声あり

中国の孟子の言には
 
 
 「家に三声あり(三声あれば安泰なり)」
 
 
 とあります。
 
 三声とは、
 
 一、家族が働いている声や物音。
 二、赤ん坊の泣き声。
 三、読書の声のこと。
 
 
 その家族の安泰を築くための住宅環境が、
 いまの日本にあるといえるでしょうか。
 また、真の日本の住まいとは、どんなものを指すのでしょう。

 あるヨーロッパ人は言ったそうです。
 
 
 「日本には、千年の風雪にも耐え得る寺社仏閣が数多くある。
  これらは世界にも誇れる建築技術です。
  日本人はなぜこんな素晴らしいものを忘れてしまったのですか」


 考えてみると、昔の日本の住宅には、
 襖や障子、引戸など、家族の関係を優しく包む創意工夫が
 数多く見られます。
 
 そんな先達の知恵が残る空間には、
 

孟子のいう「三声」が、ちゃんとあると思いますが・・・・

短い命

ああ短いかな、人の命よ。
百歳にならないうちに死んでしまう。

たとえそれ以上に長生きできたとしても、
やはり老い衰えて死んでしまう。

人が、「これはわがものである」と考える物も、
死ぬときには捨てて行かねばならぬ。

わが教えに従う者は、賢明にこの道理を知って、
「わがもの」といった観念に屈服してはならない。

「誰々さん」と名前を呼び、その姿を見、
その声を聞く人も、死んでしまえば、
ただその名前だけが残るにすぎない。



『経集』(804~808)


『釈迦 一日一言』より(致知出版社刊)

人間の思考範囲

下手の考え休むに似たり


ということわざがあるように
いい考えを持たないでいくら考えたところで
決していい結論には達しませんね


人間の思考範囲は
どうしても自分の今持ってる器を
超えることは決してできません

ですから、いろいろなことを
あらゆる角度からたくさん学んで
たくさんの情報を得て
自分の器をお置きすることが大切ですよ

道と芸

佐久間象山は「学問に道と芸あり」という。
「道」とは哲学、思想、文学といった人間や
人生を探求する学問であり、
「芸」とは法律、科学、医学、芸術といった
知識を売りものにする学問のことである。

この二つが両立して本来の学問であるが、
現代のわれわれは就職に便利だからと「芸の学問」
だけを学び、人徳を磨く「道の学問」はどこか
に忘れさられてきたのである。

次に学ぶ順序については、古典「大学」にある。
物に本末有り(ものにほんまつあり)
物には必ず本と末がある。
木でいえば根が本で、枝や葉は末である。
我々人間にも本末がある。
本になるのはどちらかというと徳性であって
知能や技能は末にある。
人間を立派に育てあげる場合には、
本になる徳性をしっかり養って
いかなければなりません。
これからすると、我々は学ぶ前に
「道」「本」を学ぶべきとなる。

江戸時代の人々とわれわれ現代人とでは
人間の鍛え方というか、教育や学問に対する姿勢が
根本的に違っていたということである。
意味を教えたりはしない、解釈を加えることもない、
とにかく朗誦する。
子どもたちが後について和する。

この繰り返しが驚くべき力を発揮した。
一年もしないうちにどの子も古今の名言をすらすら
と朗誦するようになったのだ。
そして、いつか漢字まじりの原文を
読み、書き、意味を理解するようになっていくのだ。
見習いたいものである。

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プロフィール

矢野 一成

Author:矢野 一成
愛媛県新居浜市 アール塾塾長

備忘録、すなわち
忘れたときのために備えて、
書きとめておく、
個人的な雑記帳です。

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